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家族写真の奥に過去を偲ぶ

玄関の一角に置かれた家族写真に写る僕が今の僕を見るとき、ひとしきり降り積もる過去で覆い被せた自分の本心を暴かれたような、そこから写真の中に写る僕を中心として左右に広がっていく淡い染みのようなものが母や父や妹まで行き届いた瞬間、目の前が私が思う以上の鈍重な苦しみとなって靴箱の横、あの頃とは全く似つかぬ表情でよれた制服の裾から縮れた糸を靡かせて鏡に写る自分を見た。私はまた、今日も一日が始まったのだと、そこでようやく気がついたのだ。

私は生きていることにありがたく思うことにして見た。それもそのはず幾つもの意味の異なる死にたい気持ちを味わいつつも結局は今もこうして文章を綴っているわけでして、言葉では死にたいなど空虚な宇宙に叫ぶ私ですが実はこれっぽっちも死にたくないのです。むしろ生きていたく思います。これは仕方のないことだと思います、なんといったってこれが私なのだから。そんな私ですが、もっとありがたいことに「貴方が辛いのならば、いつでも相談にのってあげるよ。」などと胸がじんわりと困窮した心持ちから一度救いの光の砲へと歩き出せる魔法のチケットのような物を頂くことがあるのですが、厄介なことにいかんせん小心者で、かつ自らの胸のうちを簡単に開け放つことが出来ない非常にめんどくさく、それでいて誰彼構わず助けを毎晩助けを求めるようにして言葉を磨耗させ続けるのですから、本当に自分がどうしよもなく醜い人間だと心の底から思います。

本当はあんなことやこんなこと、今無駄に抱え込んでいる魑魅魍魎とした悩みの種を種のうちに捨ててしまいたいと思うのですが。もし相談に乗ってくれた相手の人が私が溢した種がきっかけで心が病んでしまうのでは、と万が一の不安と申し訳なさにうちひしがれてなかなか相談することが出来ないのです。なんだろう、もっと簡単に、もっと人と近い距離で話せる間にたてる人間に慣れていたらこんなことにはならなかったのだろうか。私はあの写真に笑顔で写った小学六年生の自分よりも圧倒的に負けている気がする。勉強やスポーツ、人とのつきあい方も劣っている。
子供から大人になるにつれて夜の間に考えることが増えた。朝になれば、大好きな町でさえ軒先では陰りを落とす。そこを僕は歩かなければならない。荒々しい雨の日やコンクリートが揺らめく晴天の日も昨日の夜に自殺を綴った人の想いに頭を振り回されても、私の生活はちっとも揺れ動くことがない。昨日も明日も明後日も同じような生活を送る。心の病も体の病のどちらとも手に取って玄関の扉を開けて歩き始めなければ、素晴らしい社会で生きていくことが出来ない。

はやくあの頃のような笑顔を取り戻したい。
思い返すと作り笑いも上手くできなくなってしまった。
いつも写真撮影ではどんな顔をして臨んでいるのかが怖くて自分の写真を見ることがなくなった。だから久しぶりに見た、数年前とはいえ笑顔で楽しげで落ち着いた写真。私は心の底から人生を歩んでいたように小さな額縁の奥にそう納められているような気がした。

私にはまだ親切にも心配してくれる人がいる。
本当は頼りたいけれど、少しまだ怖くて難しい。
それでもいつかは、まだわからないけれど、折角なら頼って貰える人にもなりたいと思う。

だから、そうだな、私は今日も明日も玄関に偲ぶのだ。

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