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ジェンダーディスフォリア



 物心が付いた頃から違和感があった。人が「おとこのこ」と「おんなのこ」に分けられていることに。
私自身も例外ではなく、ひとつの性を持って生まれ、そして、その通りに育てられてきた。
 どうしてなのかは分からなかったけど、初めのうちはただそういうものなのだと思っていた。けれど、次第に何故だろうと考えることが多くなった。
 どうしておとこのこは青色のスモッグで、おんなのこは赤色のスモッグなんだろう。どうしてお母さんはお化粧をしてスカートを穿くのに、お父さんは髭を剃ってズボンを穿くのだろう。考えれば考えるほど、私の中で性に対する違和感は強くなっていった。そして、小学校に上がる頃には、私は自分の持つ性にすら違和感を抱くようになっていた。

 きっかけは些細な事だった。
小学校に上がる前、私は両親とランドセルを買いに行った。そのとき、父は私に遠慮せず好きなもの選べと言ったので、私はその言葉通りに友達と同じ色のランドセルが欲しいと伝えた。けれど、両親は私の性別を理由に、それを買ってくれなかった。
 私はがっかりした。欲しい物が買ってもらえないことは過去にも何度かあったが、その理由が自分の持つ性別だということに、何故か納得がいかなかった。
 不満は両親に対してではなく、自身の持つ性へと向き、まるで自分が生まれながらにして何か悪いことをしたかのような気持ちになり、自己否定的な感情に苛まれた。
 結局その日は、両親に勧められたランドセルを半強制的に選ばされることになった。冷たく大きなランドセルを抱えると、ずっしりとした重さと共に、厭わしさが胸一杯に込み上げてきた。

 好きでもない色のランドセルを背負い毎日登校しなければならない小学校は、私にとって酷く居心地の悪い場所だった。どうしてかと言うと、私が異性の友達と遊んでいると、決まって何人かの子供たちが毎日のように揶揄を飛ばしてきたからだ。
 幼少の頃は私が誰と遊んでいてもからかってくる人なんていなかった。それなのに小学校に上がるとどういう訳かそういう子供たちが増えていった。それが原因で、私は徐々にひとりで居ることが多くなっていった。

 夏休みが終わり二学期になる頃には、私はなるべく目立たないように過ごすようになった。
 例えば図工の時間に自分が使う折り紙の色を選ぶときは、必ず同性の子たちと同じような色を選ぶようにし、言葉づかいや一人称も、からかわれないように周りと同じようにした。
 そうしていると、私を見た親や先生は、とても安心してくれたから、私はこれが正しいんだと思うようになった。たまに異性の子たちが付けているキーホルダーや、使っている文房具が羨ましくなることはあったけど、同じようなものを買って欲しいと両親に言うことはできなかった。

 目立たないように過ごすことを覚えた私は、学校に以前ほどの居心地の悪さを感じることはなくなった。学校が楽しいというわけでもなかったが、息を詰めてじっとしていれば、私はそれでよかった。
 そうやって過ごし、気が付けば小学校も卒業に近づいていた。その頃には、私は今の生活が当たり前に続くものだと思っていた。

 小学校を卒業した私は、地元の公立中学校へ進学することになった。その中学校では当然、制服の着用が義務付けられている。私はそれを分かっていたし、納得もしていた。けれど、自宅に届いた制服に袖を通した瞬間、涙が込み上げてきた。
 姿見に映る自分を見ると、自分がとても気持ち悪い生き物のように思え、この格好で外に出るなんて想像しただけでも耐えられなかった。
 私はすぐに制服を脱ぎ、乱雑に床に投げ捨てた。元の服に着替えた私は、そのまま両親の居るダイニングへ向かった。激しくドアを開けた私の尋常じゃない様子に驚き、両親は目を丸くしてこちらを見つめてくる。

「制服、着たくない」
 私は立ったまま、短くそう呟いた。

 それ以上、私が何も言えずにいると、父は痺れを切らしたように
「座りなさい」
 と言った。
 
 私は言われるままに、席に着いた。
 席に着くと、母は何も言わず私の前にホットミルクを置いてくれた。一口啜ると、少しだけ気分が落ち着いてきた。
 父はまず、私にどうして制服を着たくないかを訊ねてきた。私は本当のことが言えず、適当に理由を付けて着たくないと伝えた。
 それを聞いた父は、本人の意思に関わらず制服の着用は義務であることを説明し、学校に居る間だけは我慢するべきだと言った。
 言われるまでもなく、そんなことは分かっている。事実、納得もしていた。それでも耐えられなかった。
 私は、どうしても制服を着なければならないなら、学校には行かないと訴えた。すると、それを聞いた父は声を張り上げた。
「いい加減にしろ。私だって毎日スーツを着て会社に行っている」
 父の言いたいことは分かる。けれど、これはそういうことじゃない。
「じゃあ、スラックスじゃなくてスカートを、ローファーじゃなくてパンプスを履けと言われても、同じように外に出れるの?」
 私は父の眼を見てはっきりと言った。
 すると、父は少し考えるような素振りを見せたが、すぐに
「屁理屈を言うな。私はTPOを弁えろと言っている」
 と一蹴されてしまった。
 
 結局、何を言っても正論しか返さない父とは、いつまで経っても話が平行線だった。その後、部屋に戻った私は、くしゃくしゃになった制服を眺めながらどうするべきかを考えていた。
 詰まるところ、私が我慢して制服を着用すれば全部丸く収まる。もうそれで良いのではないかと見切りを付けようとしたとき、私の部屋に小さくノックする音が聞こえた。
「なに?」
 音の主が誰かは、ドアを開けるまでもなく分かっている。私の部屋に律儀にノックするのは母しかいない。
「入るわね」
 そう言って母は私の部屋に入った。
「お父さんはああ言ったけど、私は貴方に無理強いするつもりはないの」
 母はそう言い、私の部屋を見渡した。
 部屋には、両親に欲しいと伝えることができず自分の小遣いで買ったキャラクター物の雑貨がたくさん飾ってある。学校では異性の友達がよく使っている人気のキャラクターだ。
「貴方が我慢していること、私は知ってるから」
 母は私の部屋を見ても、余計なことは何も言わなかった。
「けど、どうするの?」
 私は母に訊ねた。
 幾ら彼女が無理強いするつもりはないと言っても、学校へ行くのであれば制服は着用しなければならず、その要否を決めるのは母ではない。
 けれど、母は、
「大丈夫よ」
 と答えてくれた。
「一度学校へ相談してみましょう」

 数日後、私は母と共に、春から進学が決まっている中学校に来ていた。校舎の中に入るのは初めてだったが、この学校の近くは何度か歩いたことがあった。その時は制服を着た中学生の人たちが大きな大人に見え、どこか別の世界のように感じていたが、今は春休みなので校内に生徒は居らず、小学校と対して変わらなかった。
「ここね」
 母は、表札に教育相談室と書いてある教室の前で止まった。
 校門前のインターホンで既に話はしてあり、私たちはここに来るように言われていたのだ。
 
「失礼します」
 私が教育相談室へ入ると、三人の先生たちが立っていたので軽く礼をした。母は私と自分の名前を名乗り、挨拶を済ませると、
「今日はお時間を割いていただきありがとうございます」
 と言い、丁寧にお辞儀した。
「いえ、ご足労いただきありがとうございます。どうぞお掛けください」
 一番右に立っている初老の先生に促され、私たちは席に座った。
 その後、先生たちも席に着き、それぞれ自己紹介をした。一番右の初老の先生が教頭先生で、真ん中の先生は私の担任(になる予定)の先生、そして左の女性の人が養護教諭の先生だった。
 自己紹介が終わると、担任の先生は私に改めて名乗り、
「緊張しなくて大丈夫だよ。先生たちは君の話をちゃんと聞くから何でも話してね」
 と、にっこり笑って言ってくれた。
 髪が短く、若くて爽やかな、年上からも年下からも好かれそうな先生だった。
 私は
「はい」
 と短く返事をし、息を吸った。
 無理に私が話さなくても、きっと先生たちには母が上手く説明してくれる。けど、ここから先は私が、私自身の言葉で、ちゃんと話さなければいけない。そんな気がした。
 
「電話でも母が伝えてくれたと思いますが、どうしても制服を着て通学したくないんです。自宅に届いた制服に初めて袖を通したとき、姿見に映る自分を見て堪らなく不快になりました。この格好で外に出るなんて考えるだけでも耐えられなくて、どうしても制服を着なければいけないのなら、きっと学校へ行けないと思います」
 私が話し終えると、担任の先生は何度か頷き
「なるほど」
 と呟いた。
 そして、数秒ほど考え込んだ後に、
「君はどうしたいと思っているの?」
 と訊ねてきた。
「どうしたいか、と問われると難しいです。学校に行きたくないわけではないけど、その為に制服を着用しなければならないのならそれは本意ではありません。制服を着用せずに学校へ通えるのであれば通いますが、それが認められないことも分かっています」
 私は出来る限り丁寧に答えた。
 すると、今度は初老の教頭先生がゆっくりと話し始めた。
「確かに君の言う通り、制服の着用は原則として決まっているね」
 彼はそう言い、そしてこう付け加えた。
「けれど、それは飽くまでここでの話だ」
 ここでの話? どこか含みのある言い方だけど、いまいち要領を掴めない。
「どういうことですか?」
「つまり、この学校では制服の着用が義務付けられているけど、そうじゃない学校もあるということだよ」
 彼はまっすぐ私の方を見つめて、更に話し続ける。
「例えばこの辺りだと、隣の区になるが私服での登校が認められている私立の中学校がある。勿論、極端に風紀の乱れた格好だと注意されることもあるけど、今の君のような服装なら全く問題はないよ」
 確かに私立であればそういう学校があっても不思議ではない。寧ろどうして今まで思いつかなかったんだろう、と思った。
「君がどうしても制服を着用したくないのなら、そこへ通うのもひとつの選択肢だと思うよ。ただ、幾つか問題点は生じてくる」
「問題点?」
「まずひとつめは、私立の中学校だから入学試験があるということ。残念ながら一般の入試はもう終わっているから、最短で入学するのなら二学期からの編入学試験を受けることになる」
 入学試験。私立と聞いた時点でそれは何となく予想していた。
「そして、ふたつめは学費の問題だね」
 彼はそう言って、私ではなく母の方へ体を向け、姿勢を正した。
「お子さんをそこへ通わせるとなると、毎年決して安いとは言えない授業料が掛ってきます。ですが、もしもこの子が編入を強く希望した場合は、どうか選択肢のひとつとして考えてあげてください」
 母は小さく頷き、返事をした。
「そして、最後に出席日数に関する問題がある」
 彼は再び私の方を向き、話し始めた。
「先ほど二学期からの編入学試験があると言ったけど、最低限の出席日数がないと受験資格すら得られないことになっている。だから、ある程度はここに登校しなければならない」
「それは制服を着て、ですか?」
「本来ならそうなる。けれど、保健室登校という手もある」
 彼はそう言って養護教諭の先生に視線を向けると、
「ですよね?」
 と呟いた。
「ええ、保健室登校なら制服を着用する必要はなく、出席日数としても扱ってもらえるわ」
 彼女は私の方を向き、にっこり微笑んだ。
「表向きには、そうね、過敏症ということにでもしておきましょう。これなら制服を着用できないという理由にもなるし、保健室登校を認める理由にもなるわ」
 先生たちの提案はとても合理的だと思った。保健室登校で出席日数を貰い、二学期からは私立の学校に通う。私としてもこれ以上ない良案だ。
けど、学費の問題だけは、私にはどうにもできない。

「母さんは、どうしたらいいと思う?」
 帰り道、私は母に訊ねてみた。
「私は貴方がしたいようにすればいいと思うわ。もしも学費のことを考えているなら気にしないで。私立の中学なら進路上有利になることもあるから、お父さんも認めてくれるわ」
 母は私の考えを見透かしたように、そう言ってくれた。
 学費のことを考えると申し訳ない気持ちはある。けれど、両親が認めてくれるのであれば何の問題もない。編入学試験の内容までは分からないけど、私の学力ならきっと合格できるから。
「母さん」
 私は立ち止まって、母の方へ振り返り、
「ありがと」
 と、それだけ言うと、母はくすくすと笑った。


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