見出し画像

コーヒーで追悼を

コーヒーが仕事の相棒になって、もう20年近くになる。
だが、私にとってのコーヒー時間の原点は、
ダイニングテーブルにたくさんのカップがひしめき合う、家族との時間だ。

一番古いコーヒーの記憶

一番古いコーヒーの記憶は、初めて飲んだとき、ではない。
ずいぶん低い目線から、自分でコーヒーをドリップしている記憶だ。
あれは最初の引っ越しをした後の家だから、たぶん9歳か10歳。
母親に教えてもらって、淹れられるようになったのだった。
夕食後や休日の午後に「コーヒーが飲みたいなあ」という父や母の声が聞こえて、私が淹れたコーヒーを「おいしいなあ」と飲んでくれる両親の姿を見るのがうれしくなった。
まだコーヒー牛乳しか飲めないくせに、コーヒーの香りは大好きになった。

父のコーヒー

当時、共働きで子育て中の両親にとって朝は戦争。
そんな中でもコーヒー好きの家族に朝のコーヒーは欠かせず、毎朝父が淹れていた。
コーヒーメーカーなんかうちにはなかったから、当然ハンドドリップ。
そのポットごと、牛乳と砂糖をたっぷりと混ぜて甘いコーヒー牛乳にする。なんでも子ども中心の味になるのは、子育てあるあるだろう。
父は、その香りで朝寝坊の子どもたちを目覚めさせようと、ポットごと持って香りを漂わせながらベッドまで起こしに来るのだ。みんな、父が淹れた甘いコーヒー牛乳が大好きだった。
すでに支度を終えている父が近くに来ると、背広のフォーマルな匂いが、コーヒー牛乳の甘い匂いに重なる。それを嗅ぐと、なぜか急に脳が目覚めるのを感じたものだった。

家族の距離を結んでいた

大学で一人暮らしを始めてからは、実家に寄り付くのは年に3回が限度。
家族との時間もかなり減ったが、実家に帰った時は必ずコーヒーがあった。
みんなもう大人だけれど全員甘いものには目がなく、地元のケーキ屋さんのスフレチーズケーキは、集まった時には誰かが理由をつけて買ってきた。
長年家族をやっていれば、家族の距離は近いときも遠いときもある。
でもどんな状況でも、何かのきっかけでダイニングに集まってくる。
それが、うちの場合はコーヒーの時間だったのかもしれない。

最後のコーヒー

もう数年前になるが、父と最後にコーヒーを飲んだのは、東京だった。
当時私が住んでいた中央区の、とあるコーヒーチェーンだ。
ブレンドコーヒーと、やはりチーズケーキを頼んで、母と3人でとりとめもない話をした。

このときから半年もたたずに父が亡くなるなんて、このときは誰も思っていなかった。5年生存率10%に満たない病で、すでに闘病から3年が経っていたし、治らないと誰もが知ってはいた。
でもうちの家族はそろいもそろって、何の覚悟もできてはいなかった。
最期は、コーヒーはおろか何かを口にすることすらできなかったから、今思えば一緒にコーヒーを飲んだといえるのは、この時が最後だ。

偲ぶ時間

葬儀で遺族が泣くことは、ほとんどない。
周囲に一番心配される時期は、意外としっかりしている。
膨大な葬儀の事務もあるし、浸ってはいられないからだ。それに、何かに没頭することで、自分は大丈夫だと思いたかった。
でも一週間後、仕事に復帰したら7年使っている自分のロッカーの暗証番号がわからなくなった。たった4桁の数字が。
何百回も押しているはずなのに、どんなに考えても思い出せない。
そんな自分に少しショックを受けつつも数日が過ぎ、休日の電車の中でのこと。
小学生低学年くらいの男の子とお父さんが目の前に乗っていた。
アウトドアへの道中なのか、二人ともリュック姿。仲良さそうに話をしていたそのお父さんが、話しながら愛おしそうに男の子のほっぺたを柔らかくつまんだのを見たとたん、涙が溢れ出た。
自分のために、父を偲ぶ時間が必要なのだと、その時悟った。

記憶が「思い出」になるうちに

父との記憶を思い出そうとしたとき、なぜかその場面には傍らにいつもコーヒーがおいてあると気づいたのは、自分がそんな状況になった時だった。
無邪気な朝の甘いコーヒー牛乳も、
家族の距離が少し遠ざかったときの冷めたブラックも、
普段思い出そうとしても難しい、遠い過去の瞬間だ。
けれど、コーヒーという共通点を見つけて、長い年月の中から一つずつ父との時間を思い出し、偲ぶことができた。
こういう偲び方で、家族との別れを受け入れていく人もいるんだと、知ってもらえたらと思う。

人の最期はきれいごとだけではない。突然の別れということもあるし、闘病が長ければ薬で人格が変わることだってある。
だから後悔しないように、大切な人とは一緒にいる時間を存分に過ごしてほしい。
特別なことは必要ない。一緒にコーヒーを飲む時間を過ごせばいい。
その人の記憶が、ちゃんと「思い出」になるうちに。

#私のコーヒー時間 #エッセイ #コラム #父 #父と娘 #思い出 #親の死 #家族 #追悼

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?