映画「CIVIL WAR アメリカ最後の日」が示す、リベラルの隘路と監督の欺瞞
「CIVIL WAR(内戦)」に定冠詞をつけると、「THE CIVIL WAR」。南北戦争という意味になる。ではこの映画の世界観は、163年前の悲劇が再び繰りかえされた「第二次南北戦争」なのか。それは明確に違う。
それは、「南北」ではないからだ。
映画『CIVIL WAR』の内戦は、共和党と民主党、保守とリベラル、南部と北部、そういった「いわゆる分断された勢力」による戦争ではない。
なぜなら、前者の象徴であるテキサス州と後者の象徴であるカルフォルニア州が手を組んだ西部連合(ウェスタンフォースズ)と中央政府による戦争だからだ。
(もちろん、町山智浩も言う通り、片方だけを反乱軍として描くと、自分の応援したい側に肩入れした鑑賞体験になってしまうから、それを避けたという事情もあっただろう。しかし、その見方には欺瞞性があることも後述する)
映画を通して、西部連合の勝利は揺るがない。中央政府の滅亡もセットでだ。なお、存在だけが示されるフロリダ連合との新たな内戦に突入することも示唆されている。内戦も分断も終わる気配がない。
では、南北戦争勃発時の4月12日という日付に合わせて全米公開しているにも関わらず、なぜこの映画は明確に「第二次南北戦争」であることを避けたのか。つまり、実際に内戦になるとしたら最も敵対しそうなテキサス州とカルフォルニア州を、同盟者として描いた目的はどこにあったのか。
アレックス・ガーランド監督は映画パンフレットのインタビューにて、その理由をこう述べている。
「民主党と共和党が『ファシズムは悪である』と同意して手を組むことを、なぜ想像できないのか?と本作は観客に問いかけます。もしあなたが想像できないのならば、それはあなた自身の問題を反映しているのかもしれません。」
あなた自身の問題とは何か。まず、「あなた」とは観客である。この映画の観客、それはアメリカが内戦に突入する危険性を感じている人、日本も含めた各国で分断が加速していることに危機感を持っている人、そしてそのような危機感を元に問題意識を持って映画館に足を運んだ私たちだ。どう考えたって、そのようなモチベーションで観にくる層を想定して作られた映画である。
現実的に考えれば、それはアメリカにおいては非トランプ支持者である。チェイニーなど伝統的な共和党の重鎮たちがハリス支持を打ち出す今日日において、非トランプ支持者=リベラルとして見なされる。
アメリカの保守とリベラルの分断とは、結果的に親トランプと反トランプの対立になっている。もはや、本来の思想的文脈は半壊している。
日本だって、保守政治家を一貫して自認する石破総理を右派議員はリベラルだと攻撃し、総裁選の決戦投票で石破首相の誕生が確定した時にはリベラル寄りの国民の多くが好意的に受け止めたどころか、ややもすれば歓喜した。日本で置き換えた場合に、トランプに当たる人物が誰で”あった”のかは明らかだ。
つまり、程度の差はあれども、実際にはこの映画の観客はリベラル寄りの私たちである。それはアメリカ以外の国の観客も同様であろう。(身も蓋もないことを言えば、A24製作&ハピネット配給の映画って時点で当然なのかもだけど)
立ち返って、監督のいう「あなた自身の問題」という言葉に代入すると、
「右派と左派が『ファシズムは悪である』と同意して手を組むことを想像できないのなら、それはリベラル的な感性を持つ観客の”問題”を反映しているかもしれません」
ということになる。
そういう意味で、これはリベラルサイドからのリベラル派批判の映画に、結果的になってしまってもいるのだ。
言われてみれば、痛い所を突かれた気もする。
なぜ、私たちはトランプ派、過激に言い換えれば差別主義者や陰謀論者と和解することを想像できないのか?
分断を嘆きながらそんな想像もできず、ネットが悪いだの、政治家が酷いだの、メディアが駄目だの思いながら、「差別主義者や陰謀論者を啓蒙するor生み出さないようにする」という方針でしか問題解決の道筋を考えられない私たち自身の問題、欺瞞じゃないのか???
その最もネガティブな答えの一つは、作中でもっとも印象的なシーンで描かれている。
香港出身だと答えた彼は、どうなったか?
対話や和解なんて綺麗事でしかないのだろうか。
この監督のいう「問題」を突き詰めた所に、もっともらしくてキレイな答えなんてないことを、誰よりも分かっているのはこの映画ではないか。
現に、ネットに溢れるこの映画の感想はフワッとしたものか、分断社会への向き合い方に深く言及しない評論ばかりじゃないか。
独裁を強行し国を破滅させる大統領は明らかにトランプがモデルな訳で、監督自身も先のインタビューでは
「性的暴行で有罪判決を受け、邪悪で嘘つきであることが何度も証明されている男がアメリカの大統領候補なのです。ウォーターゲート事件より遥かに多くの犯罪を犯しているトランプが、失脚しないのは奇妙なことだ。」
と述べている。つまり、監督は中立でもなんでもなく、反トランプでリベラルサイドであることは明らかだ。
一方で、監督はこうも述べている。「私はただ観客に会話をしてもらいたいのです。欧米では右派と左派の会話は完全に崩壊しています。だから私は右派と左派の観客が喧嘩せず議論できるような、双方に共通点がある映画を撮りたかった。」
んんん、そんな映画になってたか?
このインタビューでさっきトランプをメタクソに非難してたのは誰だよ、と言いたくなる。
この映画は傑作でも、根本的な問題である「リベラルサイドが抱く分断への危機感が、袋小路に陥っている状態」を監督自身も乗り越えられてないとしか思えなかった。でも、それは仕方がないことなんだろう。
トランプ支持者が大多数を占めるテキサス州が、トランプをモチーフにしているであろう大統領ではなく、カルフォルニアと連合を組んでいるから、アメリカで左右どちらの価値観の観客が見ても、片方の勢力に肩入れしない設計の映画になっているーーー。
そんなのは建前だ。実際問題、右派的なテキサス州が大統領側に味方していると、「露骨すぎて」駄作になっただろう。だから、この西部連合という設定は大成功して映画史に残る傑作になった。しかし、その映画的成功と同時に行われているのは隠蔽でもある。
それは、監督の「右派と左派が喧嘩せずに議論できる映画にしたかった」という甘美な言葉に表れている。
映画の設定の上で右派と左派と連合しているからって、現実の観客体験として議論できるとはならないだろう。今のアメリカで本気でそれを目指すのならば、トランプに批判的な作中描写、監督の言動は隠さなければいけなくなる、そんなことは日本人ですら分かる。
そもそも、現在問題になっている分断というのは、価値観が反転している相手と一緒に社会派映画を見に行ったり、それについて喧嘩せず議論できない状況なのだし。
少なくとも、その状況を乗り越えられる映画とは到底思えない。それか、そんな作品が人類に作れたら、こんな世の中にならないって話なのかもしれない。
だから、実はというかヤッパリというか、この映画には希望はない。
分断の構造からは逃れらない、根本的にはどうにもならないってことを、却って強調してしまっている。
その絶望に最も向き合うプロフェッショナル、すなわちジャーナリストであった主人公のリーは、向き合うことの意味が分からなくなって絶望していった。そして、サミーの写真を消したように人間性だけが残ってしまった。そのことは、ジェシーを守った最期でハッキリ現れた。
そして、ジェシーに継承されたものは、どんな状況下でも感情を堰き止めてシャッターを切ることだけだった。
ただそれは、主役4人の本来の目的「記録に残すこと」であった。
一行は、アメリカの分断を治してやろうとか、この絶望の内戦を何とかしようなどという浮ついた理由で決死の旅に出たのではなかった。ジャーナリストとして「この状況を記録に残す」ためだ。そのためには、もはや最期が近いであろう大統領のインタビューが、どうしても必要だったのだ。
そのことを忘れていなかった記者のジョエルは、ラストシーンで最高の仕事をした。
社会も倫理も国も思想も生活も、全部ぶっ壊れたとしても多分人類は残る。そうそう簡単に全滅することもあるまい。
いつか、最後の一人が死んでしまうまで、人類史の0,0000001ページとしてでも、「この時代を記録に残す、いつかの誰かに届ける」ことだけが、僕らにできる唯一確実なことなのかもしれない。
エンディングでは、スーサイドの名曲が響く。
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