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50歳から始める終活 vol.10_3度目のお見送りはゆるやかに②

50歳から始める終活 ~もくじ~
vol.01_激動の時代に生き抜くために
vol.02_見送りびととして
vol.03_初めてのお見送りは突然に…
vol.04_悟リスト:その1 -行雲流水
vol.05_ハガキで分かるライフステージ
vol.06 喪失の経験が増えてくる
vol.07 お見送りは突然に-Part2
vol.08 悟リスト:その2-生き方が死に方
vol.09 3度目のお見送りはゆるやかに①


本人の予告どおり『生没同日』した父

父の誕生日を2日後に迎えた生前最後の面会日、私の声かけて遠のく意識から戻ってきた父は精一杯の力を振り絞って
「たん・・・じょう・・・び」
と口にした。そして、この予告どおり、父は八十八の米寿を迎えた日に静かに逝った。

朝、施設から容態急変の連絡をもらい、急いで身支度をして家を出た。もともとこの日は面会予約を入れていたので、私の娘、つまり父にとっての孫も一緒だった。
道中、私は娘に
「たぶん…間に合わないと思うけれど、昨晩、ウチで誕生日のお祝いをしたから、じいちゃんには伝わったと思う」
と話した。

どうにか午前中に母と姪、そして娘を連れて施設に着くことができた。
受付に向かうと、担当者は慌てることなく
「1階の待合室で少しお待ちください」
と言う。
(あぁ…やっぱり…)
と思った。

その日は日曜日で施設内はとても静かだった。

家族の中でおひとり…ということで、結局、私が医師の死亡診断に立ち会った。
看護師さんの後について部屋に入ると、父が「ホゲッ…」とした顔をして眠っていた。苦しんでいる様子はなく、眠りの延長でふと逝ったような顔をしている。
ベッドサイドにはドラマで見たことがあるようなモニターが置かれていて、案の定、画面にはドラマで映されるように真っすぐの線が描かれていた。
医師が確認した時間が死亡時刻となる。つまり、私が施設に到着して、父の様子を確認した時間に父が彼方へ逝ったことになった。
私は、
「じいちゃん、おつかれさまっ!」
と父に聞こえるように大きい声を出して顔を撫でると、まだ少し温かかった。

立ち合いの後は、早速、次に取りかからなくてはならない。
エンゼルケアをしていもらっている間、私はすでに決めていた葬儀社に連絡し、父の引き取りの時間と葬儀の打ち合わせの予約を入れた。

介護施設の方々に敬意

介護施設については、いろいろな問題がニュースに出ることもあるが、父の場合はとても恵まれた環境で過ごさせてもらったと今も感謝している。
それは…たぶん…施設を取り仕切る人の考え方が大きいような気がする。
ここで長く勤めている看護師さんは本当に素晴らしい方だ。実際、帰省中に体調不良(なんと尿管結石!)になった私もお世話になったことがある。
1階は地域の人に開かれた病院になっていて、看護師さんは通常の外来をこなしながら、施設に入所している高齢者のケアもしていた。
高齢者医療についてのエキスパートだし、何より、誰に対しても親切で優しく信頼を集めていた。
かくいう父も、彼女に絶対的な信頼を置いていて(半分、ファンだったと思う。笑)、私が面会に行くたびに、「●●さんにお礼を言っておいて」と話していた。

最後の最後まで、父はこの環境に満足している様子だった。
ラスト半月はほぼ寝たきりで、下半身のむくみは酷く水ぶくれができていたが、床ずれを起こすことはなく、最後の週まで入浴介助を受けてサッパリきれいにしてもらっていた。
まだガラス越しで面会していた時、ついにベッドで寝たままの状況となった父に付き添っていた介護士さんは、父と話しながら涙を拭っていたのを私は忘れない。とても心温かい人たちが多い施設だった。

介護に関わる方々は、本当に尊い仕事だと思う。老い…つまり、死に最も近い人たちのラストステージをサポートする仕事だ。『終わり良ければ総て良し』という言葉があるが、どんなにいろいろなことがあっても、最後の時を満足して過ごせたら…、そのサポートをするのは実に素晴らしいと思う。

入所者によっては手こずる人もいるだろう。認知症で対応が大変な人も多いはずだ。それでも、サポートに徹していて、その人の人生の最後に寄り添ってくれることは何物にも代えがたい。
当事者家族として、こういう仕事をする人の待遇がもっと改善されることを願うばかりだ。

見たことのない父の笑顔

亡くなった父を運ぶ車を待っていると、「お荷物は多いので後日、お引き取りにいらしていただきますが、これだけでもお持ちになりませんか?」と、施設のスタッフさんが私のところにやって来て小さなアルバムを渡してくれた。

そこには施設で行われたささやかなイベント時に撮影された写真や、私が時々、持ち込んでいた家族の写真などが収められていた。
まず驚いたのは、父の施設での様子がとても楽しそうだったことである。
あんな笑顔は私もあまり見たことがない。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに過ごしている様子が伝わってきた。
私は、
(あぁ、これで良かったんだ)
と、心から思った。

思えば、実家で過ごしている時の父は、年齢と体力、体調の割にはとても頑張っていたような気がする。自宅にいるかぎり、一家の大黒柱でいようとしていただろうし、衰えたからといって甘えるようなそぶりは一切見せなかった。いつでもいつまででも一番力強く、なんでもこなせる人でありたかったようだ。
でも、施設に入って周りの人たちから優しくされて、その頑張りから解放されて、本来の「おじいちゃん」になれたのかもしれない。写真に写る子どものような表情からその様子がうかがわれた。
(どおりで、家に戻りたがらなかったよな…)
リハビリの甲斐あって杖を使えば歩くことができたのに、父は自宅に帰ろうとしなかった。
多くの人が「家に帰りたい」というのに、父はここで十分に余生を満喫していたのだろう…それくらい、口うるさい母との生活はもう厳しかったのかもしれないということもある…笑。

いつまで頑張る?いつまで抗う?

父がそう長くないという話を聞くことになった医師との面会時、帰りがけに私は看護師さんのところへ行って、自分の選択(治療ではなくターミナルケアを選んだ)が間違っていないか相談をした。すると、彼女は、
「お父さんは、(体調不良を)治す気満々かもしれないけれど…治療がかえって負担(苦痛)になることもあるのよ…。ご家族だから、一日も長く、どんなことをしてもって考える場合もあるけれど…。よく決断しましたね」
年齢と治療の限界について私は十分に承知しているつもりだったが、実の父の命の期限を決めることになる。不安が無かったといえばウソだ。だからこそ、私の決意に賛同し労ってくれた彼女の言葉に安心した。彼女はプロだ。長い間、高齢者医療に関わっている。その彼女が言うのだから。

病気になったら治す…は当たり前のことだ。
けれど、治せない病気もあるし、父のように年齢的に生命体として衰えスイッチが入ってしまう場合もある。
これらにどこまで抗うかは個人で考えるしかないだろう。
50歳を過ぎ、子どもも成人した今だから言えるが、私は「運命にゆだねる」ということをしたいし、今後は自然の流れに逆らいたくない。
体の声に耳を傾け、必要があれば検査や治療は受ける。でも、何の声も聞こえてこないのに、人間ドッグや健康診断をしたいと思わない。会社員であれば義務もあろうが、私はフリーランスだったので、自主的に自分の身体のスクリーニングしたことはない。それで今日までやってこれた。これで、私は十分満足している。

何歳になったら?
どんな状態になったら?
自然に身を任せるかについてを、父のラストに立ち会って考えるようになった。
誰もが避けることができない場所へ行く。
そもそも「避ける」必要があるのだろうか。単に「行く」場所のような気がしてならない。
自然のことなのだ。
タネから芽が出て花が咲き、実を付けて落ちて枯れる…自然の循環だ。
雨が降ってもいずれ止むように、お日様が出てもやがて沈むように、私たちの命だって自然の流れの中に在るものだ。

無理はしたくない。そして、無駄もしたくない。
無理とは自然の流れに抗うこと。
無駄とはせっかくの命をつまらないストレスで傷つけること。
穏やかに安らかに…受け入れながら流れていきたい…。
そう思うようになったのは、50年余りを生きてきたからかもしれない。

つづく

▼▼▼最上川えつこのエッセイ第2弾『アラフィフ歌会始』▼▼▼
読んでみてね~♪


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