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50歳から始める終活 vol.07_お見送りは突然に-Part2

50歳から始める終活 ~もくじ~
vol.01_激動の時代に生き抜くために
vol.02_見送りびととして
vol.03_初めてのお見送りは突然に…
vol.04_悟リスト:その1 -行雲流水
vol.05_ハガキで分かるライフステージ
vol.06 喪失の経験が増えてくる

Welcome から Good bye が増えた

人生は一方通行。物理の世界ではパラレルワールドがあるとか、時間は存在しないとかいうけれど、私の頭には確実に白髪が増えているし、毎晩フェイスシートを乗せて抵抗してもシミ・シワは増えていく…。いくら意識を変えようとしても20代には戻れないし、チャ・ウヌの彼女にも大谷翔平くんの妻にもなれない。
生きていくしかない。
進んでいくしかない。

前回の記事で書いたように、私の得喪分岐点(得ることと失うことがほぼ同じ)は40代に入ったころ。若さで培った体力・気力がどんどん減っていき、頭の回転も記憶力もまさに“転げ落ちるように”衰えていくことを実感するのが40代後半の頃だ。
風の便りは、結婚や出産より訃報。同世代の友人と集まれば病気通院の話も増えてくる。
50代に入れば喪失に馴れてきて、開き直りや諦めを覚え、「今」を大切にしたいと思うようになり「出来るときにやらなくちゃ」と一日一生をしみじみ感じるようになる。
令和に入ると昭和のシンボルといわれるような人が次々と他界され、『昭和』の終わりを思う。
このように、私は「死」に向かう一方通行の道を進んでいるのだ。

終活は『備え』のように聞こえるが、私は人生後半の生き方を考えることだと思っている。
生老病死は自分でコーディネートできない。予定を立ててもその通りにはいかない。でも、今、自分がここに生きていることは確かなことで、生きているのであればやがて必ず死ぬ。人生のエンドポイントは確実にあるのだ。
だから、そのポイントまでどう歩いていこうかということについて考えることが私にとっての終活である。

自分の少ない人生経験では限界があるし、聞きかじりでは情報不足なので、身近にいた諸先輩方との実際の別れを私の経験として終活を考えてみる。
初めて…は義父(vol.2~vol.4で書いています)。
その次は、義叔母だった。

義叔母は義父母の家の近くに独居していた。60代に入って結婚したがすぐに離婚し曾祖母の介護をしながら一緒に暮らしていたのだが、曾祖母が亡くなった後は同じ場所で独りで生活をしていた。
義叔母は陽気な人だったが、離婚のゴタゴタがあったタイミングでリウマチを発症し、会うたびに私に曲がった指を見せて「痛いのよ…」と言っていた。ストレスは心身の健康にとてもよくないことを学んだ。

ある日突然、義母から電話…「見に行ってきて」

ある日のこと。
義母から電話が来た。
「●子のご近所さんから電話があって、最近、●子の姿を見ないから心配になって家の前に来たら、窓の周りにハエが飛んでいるっていうのよ…悪いんだけど、えつこさん、見に行ってくれないかしら?」
(うわっ、それってビンゴだよな)すぐに私はそう思った。
義母のお願いならたいていのことは聞いてきたが、
えぇ~~~~~~~っ!?!?!?
なんで、、、私がぁ~~~~~?!?!?!

義母の家から義叔母の家はすぐ近くだし、実の姉妹なのに。
私はすぐに冷静になって、とりあえず「確認はする!」と伝えて電話を切り、速攻、夫に電話をした。
「(かくかくしかじか…)だから、たぶん、、、逝っちゃってると思うの。アナタに行ってくれとは言わないから、取り急ぎ警察に電話をして事情を話して確認をしてもらったほうがいいと思う」
「分かった。すぐ連絡する」

…数時間後、夫から返事が来た。
「お前が言う通り、ビンゴだったよ」
7月。私の耳に届いていたセミの鳴き声は瞬時に遠のいていった。

警察のお仕事に、後始末業者のお仕事に敬服する

夫の連絡でかけつけてくれた警察官によって現場を確認してもらい、変わり果てた義叔母を発見。検死をすることになったが死因を特定できる状態ではなく、同時に事件性もないことから死亡診断書には「不詳の死」と記載されていた。

ここでもまた義母は義父の急逝時と同様に「わたしわかんない」の一点張り。義母の目からは「今回もえつこさん、よろしく」という言葉が伝わってきたが、「やめとけ!」という心の声が聞こえたので、周囲の期待を払いのけて、義叔母の甥である夫がお見送りと後始末をすることになった。

自宅で心不全による突然死した義父と同様、義叔母も警察に行き、検死が確定すると葬儀業者に葬儀の日まで保管してもらうことになった。(この保管料は意外と高い)火葬場の予定がなかなか空いておらず1週間以上待たされてしまった。

義叔母の住まいは集合住宅だったので、すぐに清掃しないとご近所さんに迷惑をかける。夫は数社から見積もりをとって清掃業者さんを決め、早急に対応してもらうことにした。
業者さんに全面お任せで大変申し訳ないが、夫はその現場に入ることは遠慮して、清掃後の立ち合い(これは必須)だけ住まいに入った。
幸い?にして、義叔母はベットの上で亡くなっていたので、腐敗で床を汚すことがなく、体液はベッドのマットが全て吸収してくれていたそうだ。
問題はニオイとわいた虫の駆除だ。
清掃後の部屋は綺麗になっていたが消毒液のニオイが充満し、窓の外には何匹ものハエが飛んでいた…と言っていた。

清掃業者さんには、残してもらいたい物リストを渡して、それ以外は全て処分してもらうことにした。
手元に残したのは、仏壇内の位牌と通帳類、貴金属、写真、あとはほとんど残していないと思う。(詳しくは聞かなかった)
仕事とはいえ、本来は家族がすべきことを代行してやってくださる清掃業者さんには頭が上がらない。テキパキと仕事をこなしてくれた。

義叔母には姉である義母と妹がいる。
夫はいろいろ大変だったと思うが、私は完全部外者としてお葬儀の手伝いと夫の愚痴の聞き役をすることにした。
残された預貯金を葬儀代にあてたそうだが、残りのぶんの分配で義母ともう一人の義叔母はもめた。間に入った夫も嫌な思いをしただろう。…なんとなく、そういう話に立ち入らなくてはならなくなるのではないかと予感していた私は、始めから「部外者」になることで、身の危険を回避したのだ。

死は決められないからこそ、死後のことを決めておきたい

義叔母の葬儀。固く閉じられた棺は開けられることはなく、笑顔の遺影を前に、元気だったころの彼女の姿を思い出し、
「おつかれさまでした」
と心の中で声をかけた。
この年の7月は猛暑だった。エアコンが止まっていたのでもしかして熱中症?それとも、持病で具合が悪くて寝込んでいた?または、夜、就寝してそのまま?
謎のままだったが、ベッドの上で横になっていたということは確かだ。眠るように…いや、寝たつもりで逝ったと思いたい。

義叔母には終活の形跡はなかったので、夫が決めたままに後始末が済まされた。楽天家の義叔母は
「お墓に入れてもらえただけで満足よ…」
「終活なんてやったって、結局、どうなるか分からないでしょ?」
と笑っているかもしれない。

一連のイベントをすべて終えた後の夫の様子を見るとひどく疲れていた。
義叔母との突然の別れ、お見送りは淡々な後始末、その後の義母と義叔母のもめごと、、すべてにおいて後味が良くなかったからだろう。
義叔母が孤独死をすることは避けられなかったとしても、何かメモ書きにでも「もしものときに」という書置きが残されていたら、夫の疲労も半減できたのではないだろうか?
最も身近な姉(つまり義母)が「わたしわかんない」だったために、急にやってきたお見送りびととしての役目。見送り方、家の物の始末、亡き後の本人の扱いなどが提示されていれば、残された者は本人の希望に寄り添うことで達成感を得ることもできただろう。
結果として、残されるものの希望を優先して本人の希望が叶えられないとしても、自分の後始末のことを明示することは、残される者への心遣いだと思った。

独居が増えれば孤独死は増える

義叔母が暮らす集合住宅は、高齢の単身世帯がとても多いので孤独死も多い。
だからこそ、ご近所づきあいはとても大事だと思う。義叔母も家を行き来するご近所さんはいたそうだが、それでも孤独死は避けられない。独居であれば仕方がない。
たまたま私が義叔母が住むエリアで民生委員をしている方と知り合いだったので、実は少し気にかけてもらうようにお願いしたのだが、「大丈夫です」と訪問を遠慮したそうだ。
歳を取ったら、家に来てもらう人を増やしていく…というのはとても大事だと思った。体が弱り行動範囲も小さくなる。特別なイベントもなくなるのだから、日常生活の一コマを共有できる人を作ることも終活のひとつだと思った。

▼▼▼最上川えつこのエッセイ第2弾『アラフィフ歌会始』▼▼▼
読んでみてね~♪










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