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50歳から始める終活 vol.05_ハガキで分かるライフステージ

50歳から始める終活 ~もくじ~
vol.01_激動の時代に生き抜くために
vol.02_見送りびととして
vol.03_初めてのお見送りは突然に…
vol.04_悟リスト:その1 -行雲流水

身近な訃報が増えたのは歳のせい?!

自分のことだけを考えると、子どもの頃からなーんにも変わっていない気がするが、年齢相応の歩みを続けていることがハッキリ分かるのはお正月である。
お正月?!…正しくは、近年の絶滅危惧種である『年賀状』。
昭和の時代…携帯電話が無かったころの年賀状は、自分の交友関係において重要な役割を果たしていた。
進学で互いの学校が変わったり、引っ越しをしたりで、顔を合わせる機会が減った友人の近況や連絡先を確認するのにとても大きな役目があった。

時代が平成に変わったのは私が20代のころ。学生を卒業し社会人になると、メインメッセージは『あけましておめでとう!』から『結婚しました!』に代わり、仕事と遊びに夢中だった私に「オイオイ、お前も早く大人になれよ」というプレッシャーを感じたこともあった。
やがて、『子どもが生まれました』や『(転勤で)引っ越しました』など、どんどん新しいニュースが飛び込んできて、かつて同じ場所(学校や職場)で過ごした友がそれぞれの場所で暮らしていることに感慨を覚えるようになる。
そして…平成の後半…私が40代後半に入ると、一気に喪中のハガキが増える。30代のころは祖父母の訃報が多かったが、40代後半からは親御さんの訃報にシフトされていくことに気づく。
親御さんとなると私が実際にお会いした方も多いので何とも言えない寂しさと、自分のライフサイクルの大きな変化を実感する。

そして現在、私は50代半ばに入りました

たまたま…偶然に昨日、知人の訃報が2つ届いた。
どちらも私よりも少し上の世代、60代前半の方だ。
いずれも闘病中であることを知っていたが、ここにきて急に容態を崩されて…ということだった。
こうやって、お悔やみのお知らせが身内ではなく本人に代わっていくんだなぁ…と思うと、私も「まだまだ先」なんて言っていられない。

元来、私はなりゆきまかせの性質で「転ばぬ先の杖」「石橋を叩いて渡る」なんていうことわざは我が辞書にはない生き方をしてきたが、なぜか終活だけは「ちゃんとしておきたい」と思ってしまう。
それは、私の辞書にあることわざ『終わり良ければ総て良し』によるものかもしれない。そして、終わりの瞬間の私自身と、終わった後の見送りびとの誰か…に対して「良かった」ことにしたいと思っている…からなのだと思う。

分からないから、決まっていないから、理想だけは描いていたい

終活は、思春期の頃に友達と「結婚するなら~どんな人がイイ?」なんて話をしていた時に似た心境だ。
「人生のラストは~どんな感じがイイ?」という想像。
実際に結婚すれば理想なんてただの夢絵空事だということに気づくが、想像することで自分に起きる大きな変化を受容できるイメージだけはできてくると思う。
何事も理想通りにいかないことはここまで生きてくれば分かっているが…理想の終え方をイメージしておくと、実際にやってくるXデーを落ち着いて迎えることができると思うのだ。
人生の終わり…は誰もがみーんな必ず経験するのだから、今の生活を起点に、具体的にできることと未定なことに仕分けられるよな…。
断捨離を含めて具体的にできることは少しずつ進めていくとして、残りの時間が短くなっていくからこそ考えたいのは「終わりの日までどう生きよう」ということだ。どうせ終わっちゃうのだ。おしまいになるのだ。「どうしたい?」は20代や30代のころより、今、50代半ばのほうがさしせまっている感じがしする
だから、私は「50代から終活を始めよう」と思ったんだ…。

▼▼▼最上川えつこのエッセイ第2弾『アラフィフ歌会始』▼▼▼
読んでみてね~♪



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