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50歳から始める終活 vol.9_3度目のお見送りはゆるやかに①

50歳から始める終活 ~もくじ~
vol.01_激動の時代に生き抜くために
vol.02_見送りびととして
vol.03_初めてのお見送りは突然に…
vol.04_悟リスト:その1 -行雲流水
vol.05_ハガキで分かるライフステージ
vol.06 喪失の経験が増えてくる
vol.07 お見送りは突然に-Part2
vol.08 悟リスト:その2-生き方が死に方


どうせ避けられないのだから避けようなんて考えるのは止めた

『生老病死』は仏教用語で、この世に生まれたからには避けられない4つの苦しみだという。避けられないのなら、はじめから避けようなんて考えなければいいんじゃないか?と最近、思うようになった。

「いつか親は死ぬ」を理解したのは小学校2年生の時だった。まだ頭の中がファンタジーだった私にリアリストの母が「死んだらなーんにも無くなる」とスカッと言い放った瞬間のショックを今も忘れない。
「え?なーんにも無くなる?!それってどういうこと?!」
死後は天国に行く。悪い子にしていると閻魔大王からお仕置きを受けて、もっと悪いことをしたら地獄に送られる…。いたずら好きの子どもだったとはいえ、心のどこかで「いい子でいなくちゃ」と自戒していたのに、何をしても何をしなくても関係なく「なーんにも無くなる」。幼い子どもにとって絶対的な存在の親がこの世からいなくなる…そんなことを少しでも考えるだけで恐ろしくなった。しかも、地獄へ行くよりも死んでなーんにも無くなってしまうことが怖くて、その後、しばらく寝る前に泣いていたことを覚えている。

時が経ち、人生の後半を生きている私は、いま、死後があろうとなかろうと、何が起きようと起きまいと「どうでもいい」と考えるようになった。生まれてきてしまったのだから死ぬわけで…死はだれにとっても初めてなのだから考えたって仕方ない、『その時』を迎えた時のお楽しみにすることにした。幼い頃、毎晩、死を恐れて枕を濡らしていた純粋さを思うと、年齢的に彼方が近づいているせいなのか、すんなり受け入れられている自分に「歳を取ったのね…」と思う。

逝くよりも見送る側の苦しみ・悲しみ

死について受け入れているつもりでも、残される者の悲しみは、これまた仏教用語でいうところの『愛別離苦』であるから、けっして拭うことはできない。
逝く人、見送る人…の見送る側はとても辛い。出会いの数だけ別れがあるのは仕方がないが、今生の別れの悲しみを抱きながら生きることこそ修行そのもののように思う。
とはいえ、『愛別離苦』も避けられないのであれば受け入れるしかない。

私のお見送りびととしての3人目は実父だった

私がお見送りびととしてさよならした3人目は、先に語った2人のような『突然』ではなく『ゆるやか』に道を進むような終え方だった。
それが、私の実の父である。

肝がんサバイバーではあったが手術や治療の甲斐があり、ゆるやかな最期だったと思う。
昨年(2023年)末までは、骨折のために入所していた老健で、前向きにリハビリに励み、杖をついて歩くまでに回復していたので、年明けからの急激な弱りかたに、私は少々動揺した。

2024年の正月休みが明けて、日常生活がスタートしたある日、老健の看護師さんから電話をいただく。
「お父様がここ半月で急に弱り始めたので、主治医から説明をさせてほしい」と。
医師の見立ては『老衰』。特に持病などない方が年齢的に衰えていく場合は緩やかに衰弱していくそうだが、父の場合はがんサバイバーだった。持病がある人の老衰への道筋は急な坂道になるということだった。
衰弱は月単位から週単位、やがて日単位、最後に時間単位でその変化が分かるようになる…という医師の説明通りの道を父は辿ることになる。
私は医師から説明を受けた時、2つの選択肢を提示された。
ひとつは治療目的の病院に転院し検査と治療を行うこと。もうひとつは、このまま老健にとどまってターミナルケアを受けること。ターミナルケアとはいわゆる終末期医療である。

父の寿命を私が選んだ

当時、覚悟を要する衰弱とはいえ、父の意識ははっきりしていた。認知症の症状もなく、面会に行くと日常会話は滞りなくできる。本当は、本人の意思を最優先すべきところだろうが、医師は身近な家族に今後の方針を決めて欲しいと言った。本来、決定権のある母は「私…分からない」(義母と同じ)というばかり…。結局、私が決めるしかなかった。

父にこの2つの選択肢を提示したら『治療』を選んでいたかもしれない。がんをはじめとして晩年はいろいろな病気に罹ったがその都度どうにか乗り越えてきたし、生きることに前向きだったから。
でも、今回は今までとは大きく違っていた。
まずは、介護を受けて生活するしかない身体状況。87歳という年齢。そこから受けられる治療の限界…。
どうしよう…私の選択で父の寿命が決まると思うと心苦しかったが、親の見送りをすることが子どもの役目だとすれば、私がどう選択しようと父は死後に文句を言うこともないだろうと覚悟して、後者「ターミナルケア」を選んだ。
というのも、父はお世話になっていた施設とスタッフさんに満足して過ごしていたからだ。下手に大きく環境を変えないで、安心できる場所で最期を迎えられるのであれば、そのほうが良い身体状況と年齢だと私は判断したのだ。
父の気持ちを無視して申し訳ないが、「私だったら…どちらを選ぼう」と自問した時、私は迷いなくターミナルケアを選択する。平均寿命を超えることができたのだから、あとは全面的に天に身を預ける…というか、運命に従うことが自然だと考えたからだ。
そして父は、みるみる弱っていく自分の身体を感じながらも私との面談で「大きな病院に行って検査・治療を受けたい」とはひと言も言わなかった。つまり、このまま穏やかに最期を迎える…ことを私が決めたことを知っていたはずだ。愚痴や文句を言わず、自分の運命を受け入れた様子は、実に父らしいと思う。

どう生きれば幸せなのだろう?

施設とターミナルケアの契約をしてから、私は時間があればできるだけ面会に行くようにした。コロナやインフルエンザの感染対策で、ガラス越しのたった5分の面会だったが、会って他愛もない話をして父の様子を見届け、スタッフさんに状況を聞いた。
明らかに体調の変化が見られたのが2024年に入って間もなくのころ、そして、徐々に衰弱していき、面会の場に車いすに乗ってきたのがベッドのままの移動になり、最後の3週間は、別室を設けてもらって直接面会ができるようになった。

父の様子を見て、一応の老衰のプロセスを直にみさせてもらった。
「眠くて眠くてしょうがない」
そう言いながらも、面会時に声をかけるとしっかり意識を戻してくれていたし、時折、笑ったり、冗談を言ったりして私たちやスタッフさんたちを笑わせてくれた。帰りがけには、スタッフさんたちから「良くしてもらっている」「お世話になっている」と言っては、「帰るときにお礼を言っておいて」と話していた。
その様子に、私はこの選択が間違っていなかったと思った。

医療技術が進歩したことは素晴らしいと思う。が、
一分一秒でも長く…が幸せなのだろうか。
父の最期までのプロセスに添いながら、私はいろんなことを思った。
運命はどこからは動かせず、どこまでは動かせるのか?
生への執着は、何への執着なのか?
結局、だれもが死ぬわけだ。もしかしたら、どう死ぬか?はどう生きるか?と同じくらい大事なのかもしれない…。

ターミナルケアの契約から約2か月。
生前最後の面会でも父は声掛けに応じた。もう目を開けることはできず、頷いたりすることぐらいしかできなかったが、必死に力をふりしぼって、父は「たん・・・じょう・・び」と言った。
父の誕生日は2日後である。
私は、父が今日を自分の誕生日だと勘違いしたのだと思い、
「そうだね。誕生日だね。八十八歳だよ。よく頑張ったね!」と話すと、父は大きく頷いた。
もう目を開けてみることは出来ないかもしれないが、看護師さんから「桜が咲くまで…」と言いながら励ましていると聞いていたので、私は花屋で桜を探して買い、実家の庭に咲いていた大輪の水仙と合わせて「父の部屋に飾って欲しい」と言うと、担当の施設長さんは快く引き受けてくれた。

見送り人が納得できるように逝ってもらった

死相…。父をまとう黒い影がだんだんと濃くなり、私は面会のたびに「これが父と話せる最期かな」と思ったが、この日の父の様子に私はハッキリと覚悟した。
「お父さん、いろいろありがとうね」
「眠れるならゆっくり眠って休んでね」
そう言って私は父の顔を撫でると、大きく頷いた。

帰宅して、その日の父の様子を思い返すと、父が自分の誕生日に逝くと告知してくれたのではないかと感じた。
この面会の二日後、つまり誕生日の日はもともと面会予定にしていたが、私はたぶん間に合わないと思い、誕生日の0時00分に娘とロウソクを灯して、
「おじいちゃん、お誕生日おめでとう!」
と米寿を祝った。

幼いころ、母から「死んだらなーんにも無くなる」と聞かされたが、いつの頃からか私は「死んでも生きていてもあまり違いはない」と思うようになっていた。
その日の夜、父の父…つまり私にとって祖父、父が若い頃に亡くなっているので会ったことのない祖父に向かって心の中で「お父さんのことを迎えに行ってあげてください」とお願いをした。
というのも、私はなぜか父方の祖父が応援してくれているように感じることがあったからだ。
父も、自分の父親が迎えに来たらきっと安心して一緒に逝けるだろう。「おじいちゃん、よろしくね」と「お父さん、ありがとう」を念じると、私は安心して眠りについた。

翌朝、面会のための身支度を始めようとしていたときに、母から電話が来た。
「容態が急変した」

この時、私は「おじいちゃんが、ちゃんとお迎えに来てくれたんだな」と思った。
父は見送りびとたちが心から納得できる生き方(逝き方)をしてくれた。

つづく…

▼▼▼最上川えつこのエッセイ第2弾『アラフィフ歌会始』▼▼▼
読んでみてね~♪



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