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水玉消防団ヒストリー第3回 天鼓 1953—1975


 取材・構成◎吉岡洋美
協力◎松本路子写真事務所
 
 2022年8月8日に行われたM.S.U.のライブでも圧倒的ボーカルで確然たる存在感を放った天鼓だが、意外なことにもともと「音楽的嗜好はない」と言う。水玉消防団から音楽活動を開始し、同時にヴォイスパフォーマーとして表現の可能性を広げた彼女。「女たちとの活動のはじまり」にもなったというホーキ星と出会う前は、どのような少女時代だったのか話を聞いた。
 

「女は勉強しなくていい」中学時代の強烈な記憶


——出身は福岡とお聞きしています。
 
天鼓「福岡の筑豊で、北九州市の割とそばで生まれたんですけど、もともと炭鉱のあった場所が近いんですね。かなり片田舎で、すでに炭鉱は斜陽になっていて、何も起こらないような場所でのんびり育ちましたね。カムラが言うように九州は封建的と言えば封建的ですが、ウチのほうは炭鉱があったせいで、人の流入があって人が混ざり合うことが多かったからか、そこまでではない。私は好きなことをして過ごしてました。父母が両方とも教師で、でも、どちらも私にうるさいことは言わないし、女だからどうこうと言われたことなく育ちましたね」
 
——では、地元では伸び伸びと?
 
天鼓「そうですね。下に弟が一人いますけど、私は初孫だったんですね。だから、祖父母たちももの凄く可愛がってくれて、可愛がって育てられると、どこか自分のしたいことをするのが当たり前になるんですね。私にはおじさんもいっぱいいるんですよ。父親に10人ぐらい兄弟妹がいてほとんどが男の人。おばは1人しかいない。そういうところで女の子一人という幼少期で育っているから、何でも私がこうしたいと言うとそのようにやらせてくれる」
 
——まわりに男性が多くて「女の子らしく、大人しく」なんて我慢させられるわけじゃないんですね。
 
天鼓「いやいや、めちゃくちゃ可愛がりますよ。親族のなかで女の子がめずらしいわけでしょ。だから、もう大変でしたよ、女王様でしたから。でも、中学1〜2年だったか、学校で社会科の先生に授業のなかで『女に勉強なんか必要ない』と急に言われたことがあったんです。そんな時代ですよ。急にそんなことを言われて、頭にくるじゃないですか。でも、まわりを見ると友達の女の子たちは普通に平気な顔しているわけ。悔しそうな顔でもなく。私は、『何なの? 皆で立ち上がってコイツを殴ろう!』って思っているのに、皆はシラッとしている。何なの? コレ? って。『ああ、ここで言ってもしょうがないんだ、この人たちと一緒になって怒ったりできないんだ』と思ったことはありましたね。だけど、当時そういうことを言う大人っていっぱいいましたよね。私が大人になってもいっぱいいましたから。もちろん、教師でそんなことを言うのはどうなんだ、ってのはありますけど、その先生と同じように考えていた人はたくさんいたわけだから。そう考えると、まわりの友達も本当は腹を立てているけど、それを表に出していなかっただけかもしれない。彼女たちのお父さんがそういう考えの人で、家でそういうことを言うのが普通だと、『ああ、ウチの父親と同じようなこと言ってるわ』としか思わなかったかもしれませんよね。私の父親はそういうことを言う人ではなかった分、『女は勉強しなくていい』なんて言われて、もうびっくり仰天ですよ」
 
——強烈な思い出ですか。
 
天鼓「いまだに覚えているんだから、そうですよね。誰でもそういうところはあると思いますけど、私なんか『やられたことは覚えてるぞ』という性格で、腹も立ったし、子どものときから何でもやらせてくれるのが普通だった分、何で私、そんな風に言われなきゃいけないの? 女の人だからって何の問題もないでしょ? 何をしてもいいでしょ? と思ったし、それは今もずっと思っていますけど、でも、世の中はそうじゃないんですよね、どこか。そういうのが現実なのかもしれない、とはそのとき思いましたよね」
 

ロックのようなうるさい音楽は興味なかった


 
——音楽の嗜好はいつぐらいから芽生えたんでしょう。
 
天鼓「私は、あまり音楽の嗜好とかないんですよ。小さい頃は家にあるものしかないじゃないですか。そうすると、おじやおばが買ったプレスリーやシャンソンのレコードが置いてあって聴いたり、子どものときは『サウンド・オブ・ミュージック』あたりの映画を観はじめたとき。ウィーン少年合唱団が来日したらよくコンサートに行ったりしてましたね」

●Sound of Music「Do-Re-Mi」(1965)

●ウィーン少年合唱団 シューベルト「セレナーデ」(1964)

 
天鼓「そして、中高の思春期になったときはフォークソングですね。ブームでしたから。年代で言えば、高石ともやや岡林信康が地方をまわりながら歌って、吉田拓郎が出てきはじめたぐらいのとき。歌詞の力はすごいな、と思っていた。地方ってコンサートを観るのも大変じゃないですか。コンサート情報をしょっちゅう調べては北九州まで観に行くんですよ。『加藤和彦が来るんだ』とか、そんな感じで。でも、大学に入ったらずっとテニスだけしていたので、何も音楽のことはしていない。私が行った大学は和光大学と言って……」
 
——和光大学ですか。ジャックスのイメージがあります。
 
天鼓「早川義夫さんね。そうそう、妙な人が色々いた大学なんだけど、当時はそういうことに何の興味もない(笑)。あの頃、安全バンドがよく大学の体育館でやってたんだけど、『うるさいなー、またやってんの?』って思ってて、あの頃はああいう大きな音のものは聴きたくないし、興味なかった」

●安全バンドLive(1974~1976)


 ——カムラさんは親戚中から4年生大学に入るのを反対されたと言ってましたが、天鼓さんはいかがでしたか。
 
天鼓「特にそういうのはなかったんですけど、女子で東京まで行く生徒はあまりいなかったですよね。男子はけっこういたけど。女の子の場合、近所の国立大か、せいぜい家を離れても関西まで。私はウチからなるべく遠いところがいいと思ってましたね。やっぱり家の束縛ってありますから。今の若い人って、割と親と仲いいじゃないですか。私も別に仲が悪かったわけじゃないけど、一緒にいるのはゴメンだと思ってましたね」
 
——早く自由になりたいと?
 
天鼓「そうそう。自分のしたいように何でもする、と思っていたし、そうしていましたしね。でも、大学のときはあまり自分が何かであるとか、何かをしたいとか思ったことがないんですよ。面白いなと思ったら何でもやるんですけど、これになりたいというのもなかったし。私は団塊よりもあとの世代ですけど、当時、和光大学にはまだ鉄パイプを持って走り回っていた人たちがいて『よくあんなことしてるな』とも思ってましたし」
 
——アナクロだな、とか?
 
天鼓「というか、やっぱり鉄パイプなんて痛いじゃない、って感じですよね。基本的に『社会を変えよう』ということと、その人たちがやってる鉄パイプを持って走ることがつながっていない。ある種茶番でしか見えないというか、どこまで本気かって、あまり分からないじゃないですか。既にほとんどの学生運動は終わっていたけれど、全学連の集会が必ず和光であったんですよ。多分、他の大学が場所を貸さなかったのを、和光は集会に貸してたんだと思うんですよね。だから、機動隊もしょっちゅう学校の門にいたんです。でも、こちらから見ると『何か変えようと言って、ああやってヘルメット被って鉄パイプ持って、それでどうにかなるのかな』みたいな」
 
——しかし、天鼓さんの大学もカムラさんの大学も、ともにまだ学生運動の空気が残っていたのは興味深いですね。
 
天鼓「そうね。他のところよりは残っていましたよね。でも、メインストリームではなかったと思いますよ。私は大学ではたまたま高校のときにやっていたテニス部に入ることになり、やりはじめたら面白くて大会に出たりして本気で打ち込んでいて、大学ではそっちに明け暮れてましたね。カルチャー方面のことは何もやってない。それで大学を出ると、就職する予定もなかったので半年ぐらいは実家に帰って、車の免許を取ったりして。半年経ったとき東京のTV美術の会社に就職するんです」

1977年、23歳頃の天鼓。千葉の一軒家建設プロジェクトにて。大学時代に打ち込んだテニスは「確か全国大会に出場する選手だったはず。天鼓の体力は誰にも真似できない」(カムラ)。「どんなことでも本気で打ち込んできたので」(天鼓)[撮影:松本路子]


 

面白いことはクリエイティヴのなかにしかない


 
——美術の会社ということは、クリエイティヴな仕事をしたいという思いは、あったんですか。
 
天鼓「うーん、基本的に面白いことというのは、そういうことだけなんですよね。それは中学2年ぐらいのときに、すでに分かっていたことなんです。将来、何かやるのなら、美術か音楽か文芸=モノを書くか。面白いことはクリエイティヴなことにしかない。中学2年ぐらいのときって、何かが見えるときがあるんですよ。ちょうど音楽の授業でレコード鑑賞の時間だった。チャイコフスキーか何かをぼんやり聴いていて、突然『わかった』と思ったんです。これからどんな道を選んでいっても、多分、美術か音楽か文芸のどれかを選んでやっていくんだろう、それだったら自分は面白く楽しめる。生きているってことは、そういうことをやっていくことなんだ、と。だからといって、急に音楽とかを始めたというわけじゃないですよ。でも、何かが分かるときがあるんですよね。それを大学のときは忘れてて、“ああ、そうだ、私はそういうことを考えてたなあ”と思い出した。ただ、どこかでずっと自分の生きていく方向はそっちなんだとは思っていて、その割には“何でテニスしてたんだ“という話はあるんですけど(笑)。だから、音楽を始めたのはきっと水玉消防団からということになるんだろうけど、ずっと中2のときに感じたその気持ちは持っていたから、水玉を始めたのも別にそれほど特別な感じでも何でもなく『やるんだったらやろう』という感じだったんですよ」
 
——TV美術の会社ではどれぐらい働いたんですか。
 
天鼓「もともと誘ってくれた人がいて会社に入ったんですけど、勤めたのは1年ぐらいですね。TVって幻想だから“幻想社会って私にはダメだな”ということが1年ぐらいでわかった。それで、作る仕事で何かやったほうがいいなと思って、帽子を専門で教えてくれる学校に行って帽子のデザインの勉強をしてたんですね。そして、ホーキ星に行ったのはその頃なんですよ」
 
 中学のとき学校の教師の発言に憤り、「一緒に怒ってくれる人はいないんだ」と思った天鼓が「そこでは、ある意味、一緒に怒る人たちだけが集まっていた」と言うホーキ星。
 次回は、そのホーキ星の女性たちによって開催され、天鼓とカムラも参加した「魔女コンサート」について、二人の証言でたどる。

1979年、水玉消防団を結成して間もない頃の天鼓。当初はドラムとボーカルを担当していた


1984年頃の天鼓(右)とカムラ(左)。目黒鹿鳴館での水玉消防団のライブにて

●天鼓 1979年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。

●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

◆天鼓ライブ情報

「GIGANOISE〜SPIN-OFF ギガノイズ スピンオフ」
11/28(月)@秋葉原CLUB GOODMAN
出演者:天鼓、内橋和久、坂田明、巻上公一、山川冬樹、doravideo
OPEN:19:00  START:19:30
前売り:¥3,000 当日:¥3,500

 天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。



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