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【古典】「筒井筒」のルサンチマン_化粧をする女①_@伊勢物語23段

【140字まとめ】高校の古典教材として有名な「筒井筒」。クライマックスは、別の女の所へ通う男を見送った後、残された女が化粧をする場面。一人の部屋でなぜ女は美しく装うのか。授業でも必ず質問する部分ですが、なぜだと思いますか?ここではまず、「筒井筒」のあらすじをご紹介いたします。


「伊勢物語」とは

平安時代に成立した歌物語で、平安時代初期に実在した在原業平がモデルととも思われる男性の恋を中心とする一代記的物語とも読めます。主人公の名は明記されず、多くの章段が「むかし、男ありけり」の冒頭句で始まります。後世への影響力の大きさは『源氏物語』と並び、日本古典文学の代表的作品の一つです。


「筒井筒」あらすじ

「伊勢物語」125段の中の23段目のお話。
丸く掘った井戸を囲う「わく」の傍で背を比べ合った幼馴染の男女が、お互い惹かれ合い、結婚するまでの話がつづられます。

むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでてあそびけるを、おとなになりければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとよりかくなむ。
 筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
女、返し、
 くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
などいひいひて、つひに本意のごとくあひにけり。

「伊勢物語」第23段 

ここに出てくる「男」は「田舎わたらひしける人の子ども」つまり、「田舎暮らしをしている人の子ども」とありますので、都の貴族である在原業平の事ではなさそうです。業平の華やかでドラマチックな恋愛模様ばかりが描かれる印象の「伊勢物語」ですが、夫婦や親子の愛、主従の親愛など普遍的な人間の愛情がつづられているのも魅力です。

成長し、お互いを男女と意識し合って、会うこともままならない時が過ぎますが、思う気持ちは変わらず、女は親の勧める縁談も断って、男との結婚を心に誓います。そこへ男からの求婚。女も思いを打ち明け、晴れて二人は結ばれてハッピーエンドと思いきや、つらい現実が2人を襲います。


新しい妻の登場

さて年ごろふるほどに、女、親なくたよりなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡に行き通ふ所いできにけり。

数年後、女の親が亡くなってしまいます。
当時は「通い婚」で、男が女の家へ通う結婚形態が取られていました。男の衣食住は女の家が面倒を見ることになっており、女の親が亡くなることは、即、2人の無収入を意味します。結婚年齢も若いでしょうし、男が女を正妻に迎え世帯を持つにはまだ無理があったのでしょう。
このまま貧しく暮らすわけにもいかず、男には河内の高安(現在の大阪八尾あたり)に新しく通う女ができます。
今の妻の家から新しい妻の家へ通う支度をする男。
一夫多妻制の時代とはいえ、支度を手伝う女の心中は穏やかではないはず。しかし、そんな様子はつゆ見せず、女は男を送り出します。

されけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女、いとようけさうじて、うちながめて、

女の様子を不審に思った男は浮気を疑います。「女にも別の新しい男ができたから、こうやって嫉妬せずに自分を送り出すのだろう。」というわけです。
そこで男は河内へ出かけたふりをして、庭の植え込みに身をひそめます。
果たして、男を見送り、家に一人残った女は大変丁寧に化粧をし、美しく身なりを整えて、まるで誰かを待つように、庭の方をぼんやりと物思いにふけって眺めています。

本文には描かれていませんが、きっと男はここで女の浮気を確信したのではないでしょうか。もしかすると、現場を押さえるべく、庭へ飛び出そうと身構えたかもしれません。読み手の私達も「化粧?誰か来るの?」と次の場面に来る誰かを予想しながら文字を追うと、女が静かに和歌を詠み始めます。

風吹けば 沖つしら浪 たつた山 夜半にや君が ひとりこゆらむ
訳「風が吹くと沖の白波が立つ竜田山を、夜中に貴方は一人で越えているのでしょうか」

「しら浪」までの句は「白波が立つ」で「竜田山」を導く序詞。また、白波とは盗賊を意味する言葉でもあります。盗賊の恐ろしいイメージは、現在とは全く違う厳しい自然の怖さ増長させ、そのような危険な夜の山道を進んでいくあなた、どうぞご無事で河内へたどり着きますようにと、女は切実な思いで別の女の家へ向かう男の身を案じる歌を詠んだのです。

歌舞伎の演目で有名な「白浪五人男」ですが、白波が盗賊を表す由来については「黄巾の乱」の「白浪賊」が基になっているようです。

男は自分に向けられた、女の一途な思いに心打たれ、河内へは通わなくなってしまいます。めでたし、めでたし。
と言いたいところですが、読み手にはモヤっとするところがあります。


「なぜ誰もいないのに化粧してたの?」

化粧になじみのなさそうな素朴な高校生にも真っ黒に日焼けしたゴツゴツの体育会系にも質問します。
結婚・浮気・嫉妬・化粧などなど
明るい日差しと穏やかに舞うカーテンの国語教室で繰り広げられる、ドロドロの愛憎劇。
国語教材の持つこの変態さに私はしびれます。

さて、授業では多様な研究や前後の描写から「この読解が妥当だ」という、いわゆる「正解」を準備するのですが、ここでの答えは

誰もいなくても常に端正な姿で過ごす、女の慎み深い態度を表したもの。
夫のいない間も女性のたしなみを忘れない妻の風流さ。雅な心ゆえの行動。

ということになります。

また、少し違った観点から、
化粧には自身の心の隙間を埋めるというような意味合いがあり、夫が出て行った後の寂しさ、やるせなさを化粧によって紛らわしている女の切実な心情の表れ。
という答えも考えられます。

でも、それだけ?

もう少し、私はこの女の化粧に内面の複雑さと能動性を感じてしまいます。
次のnoteで、別の理由をわたしなりに考えてみたいと思います。
ここまで読んできただき、ありがとうございました。

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