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たんぼぽの胞子が飛んでいるのを見逃さないような人でありたい

こんなこと誰にも恥ずかしくて言ってこなかったのですが、
僕はたんぽぽの胞子が飛んでいるのをよく目撃します。

他の人はどうか知りませんが、その頻度が高いような気がします。

そして、たんぽぽのわたが飛んでいるのを見るのが、とても好きです。

なんてファンシーでメルヘンな男の子なの、と思うかもしれませんが、
ああ、生きてるなあ、と思ってとても嬉しい気持ちになるのです。

頑張って土のある所にたどり着けよ〜。
と思いながら見送るのが好きなのです。

この、「たんぽぽのわた目撃率高め」な僕ですが、
今回の記事のテーマに無理矢理繋げるのならば、
僕は「よくそんなとこ見てるね〜」とよく言われます。

探し物は得意ですし、
すれ違った人の顔や特徴、身に付けているもの、
建物やお店、風景など、

なんでそんなとこ見てたの?
さっき私と話してたよね?

みたいなことがしょっちゅうあります。

この人は次にこの行動をしたいんだろうなあ、
じゃあこれを渡してあげれば助かるだろうなあ、
なんてことも毎日ほぼ無意識で考えて行動しています。

あくまで僕の身の回りの人や、
通勤途中などに見かける人を見ての感想ですが、
「全然この人周り見えてないな」と思うことがしばしば、というよりこれもしょっちゅうあります。

別に自慢ではありません。
いや、嘘です少し自慢です。

色んな所を見ている、と言われれば聞こえが良いですが、
「集中力が無い」とか
「僕の話聞いてました?」
みたいな捉え方もできます。

ですが、ここで僕が意を唱えたいのは、

「神経を研ぎ澄ませる」
「一点に集中する」
ということが、

「成功」に必ずしも結びつくわけではない、ということです。

武道においては、1つの型に固執するのはよくない、とされます。
どの型にも対応できるという状態が、
一番理想的な型、とされるのです。

これはサッカーのシュートや、野球のバッティングなんかでもそうではないかと思います。

サッカーのシュートは、シュートコースを察知して、「ここだ!」とピンポイントで射抜こうとすると、失敗率が上がります。

この辺が空いている、とフワーッとした意識で蹴ると、案外シュートは決まります。

野球のバッティングも、ストレートだけに山を張っていれば、成功することもあるでしょう。

しかし、所詮ヤマカンなので、外れることも多いでしょう。必然的に打率は下がります。

それよりも、どんな球にも対応できるようなフォーム、バッティングスタイルを作り上げるほうが、
自ずと打率は上がるはずです。

話を戻すと、一点集中、神経を研ぎ澄ますよりも、
漫然と、意識を散漫させて、ゆったり構えているほうが、
案外素早く次の最適な行動へと身を移すことができるのです。

僕の尊敬して止まないマイヒーロー、イチローさんが言う「泰然」の境地というのは、
これに近いものかもしれません。

色んなことに気づける。
色んなことを見逃さない。

これは、揺らぐことのない、一糸乱れず張り巡らされた神経の元、
「全集中」によってもたらされるもの、
と思われがちです。

僕はそうは思わないのです。

本当の「集中」とは、
張り巡らせるのでもなく、研ぎ澄ますのでもなく、
漫然と、ゆったりと、散漫させた意識の下、
泰然としていることで、
もたらされるものではないか。
そう思うのです。

イチローさんの言う「泰然」に少しでも近づき、維持するために、

少しでも多くのタンポポや、夕焼けや、季節の変化、髪の毛を切った誰か、駅で困っている妊婦さん、道に迷っている外国からの観光客の人、

これらに気づける心を持ち続けられる人でありたいと、そう思います。

皆さんもぜひ、「集中」の意味を一度考え直してみてください。
新たな気づきがあるかもしれません。


小野トロ

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