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被差別者への視点の難しさ

差別は無くなるべきだ。
僕ももちろんそう思う。

BLM。
Black Lives Matter

大いに意義のあることだと思います。

しかし、差別を失くす、というゴールを考えるときに、
見失ってはならない論点があるとも思うのです。

それは、平等ということの意味と、
それに付随する、差別の再生産性です。

何が言いたいか見当がつかないと思うので、具体的に、想像し得る架空のエピソードを使って説明しましょう。

私は白人である。

黒人が差別を受けていました。

警官が大した理由もなく黒人を射殺しました。

これはいけない、と思う。

黒人差別、人種差別反対を叫ぶ。

運動にも参加する。

しかし、ある日、アルバイトでスーパーのレジ打ちをしていると、強盗に襲われる。

すると、マスクの隙間から除く肌は、黒だった。

やっぱり黒人は怖いのかな…。
悪いのかな…。

統計を見てみると、やはりこの街では黒人の犯罪率が白人と比べても高いみたい…。

でも、それは経済の構造が、黒人に不利なものになっているからだ。
そう大学の教授には説かれたものの、

やはり店に押し入ったあの黒人の姿が脳裏に焼き付いて離れない…

デモに参加するのはしばらく辞めようかな…。


何を参考にしたわけでもありませんし、
僕は外国に住んだことも無いので、
海外事情はわかりません。

しかし、何となくありそうな話に思えませんか?

この例を通して何を伝えたかったか、と言うと、

「被差別者は全員が聖人君子というわけではない」
「差別されているからといって、イコールその人が善人というわけではない」

ということです。

そして更に言うと、
もしもこの世界におけるあらゆる種類の差別が無くなり、平等な世界が訪れた時、その時こそ、
僕達は自分の中の醜い偏見と戦わなくてはならない、ということです。

平等が実現されるということは、
白人だろうが黒人だろうがみな平らに、公正に扱うということです。

ここで僕らを邪魔するのは、
差別を受けてきた人たちは、
「可哀想で、弱くて、比較的善い人たちなのだ」
という偏見です。

本当の意味での平等が実現した社会ならば、
白人だろうと極悪人はいるし、
黒人にももちろん犯罪者は現れる、
ということです。

しかし、何らかの差別に反対するムーヴメントが起こると、
自然と僕らの意識(ここで言う僕らとは、黒人以外の人たち)の中には、
先ほど挙げた偏見が植え付けられるのではないでしょうか。

その効果によって、
平等が実現したと思われた世界において、
被差別者が悪いことをした場合、
感情は反転して「ほら、やっぱりね」となるのではないでしょうか?

やっぱり黒人は犯罪を犯すんだ、と。

これでは本当の意味での平等なんて訪れませんね。

白人にも悪い人も善い人もいる。
黒人もそれは同じ。
何故なら同じ人間だから。

言葉では簡単に言えることですが、
何かあると、殊更自分の身に何かが起きると(先程の具体例のように)、

差別はいけない!
と思っていても、
やはり怖くなったり、自分の信念を貫き通せなくなってしまうものではないでしょうか。

日本人にもそういう人は多いでしょう。

「やっぱり韓国人か」
「これだから中国人は」

と言った意見はもはやSNS上に公に存在しますし、
公言せずとも意識の中にそうした感情を持つ人も多いと思います。

有名人の仮面を被ってさも学術的、専門的に見せて差別発言をする専門家もいます。

この現象は福祉による支援にも見て取れます。

被支援者は弱く、可哀想で、善い人だ、と。

それは合っているときもあるし、間違っている時もある。

だって人間だから。

障害(障がい)を持っている人だってそうです。

障害者(障がい者)が全員清く正しく、健気に生きているわけではないんです。

だって人間だから。

差別を受けている人、
支援を受けている人、

それら社会的に弱いとされている人たちが、

弱くて可哀想で善い人たちだと思い込む。

その思い込みがまた新たな偏見、差別を生み出すのです。

だから僕は、黒人差別やレイシズムと闘うムーヴメントを起こすことは、

違いを更に強く人々の意識に植え付け、
断絶を助長する結果にもなり得るのではないかと思います。

レイシズムは、無くなるべき憎きものであることは間違いありません。

しかしそれは、デモやキャンペーンで失くすべきものなのか。
それに関しては僕は正直相当に疑問に思います。

「差別はダメだな」
「だって可哀想だもの」
「違うからって差別しちゃダメだよね」

そういった間違った「良さそうな」意識を生み出してしまいかねないのです。

差別を無くそうと声高に叫ぶことが、
違いへの意識を植え付けることになる。

本当は、違いなんて無いし、肌の色が違ったとしてもそこに「人種」なんてものは生物学的にも存在しないわけです。

だから、「差別されて可哀想な黒人」像を植え付けることを辞めて、

皆同じ人間なのだから、
被差別者を聖人君子と捉えかねない運動は辞めて、

「同じ人なのだから、過ちも犯すし良い事もそれなりにするんだ」

というごく当たり前なことを、
声高に叫び続ける必要があるのではないでしょうか。

人間はとにかく「不公平感」に敏感な生き物です。

運動によって可哀想な被差別者像が植え付けられてしまうと、
どこかでまたそれに対して不公平感を抱く人が現れます。

差別反対運動はそうして新たなレイシストを、無意識的に自己生産してしまっているのでは無いでしょうか。

僕には特効薬になり得る解決策なんて思いつきません。

しかし、今の世界が、僕にはこう見える、ということを書くことはできます。

この記事で書いたように、僕にはこの世界が見えるのです。

草の根で、子どもたち1人1人に、
大人の背中と言葉で、
「皆が全員同じ人間であり、
かつ同じ人なんて誰一人としていないんだよ」と、

「同じだけど違う」ことを共に学び続けるしか、道は無いのでしょうか。


小野トロ、


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