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適応障害で退職し、転職した職場を3日で辞めた僕がヒモから主夫になり起業するまでの話005

休職期間中に、大学の友達と飲みに行くことがあった。

卒業後も頻繁に会っており、親友と呼べる間柄の2人だった。

その飲み会の中で、大きなショックを受けた話があった。

2人の内1人は、、結婚式を控えていた。

必然的に結婚の話になり、続いて子どもの話になった。
1人は子どもをつくるつもりは無いと言い、
1人は子どもが欲しいと話していた。

その内子どもは是非欲しいという1人にその理由を聞くと
「働く意味やモチベーションが欲しい」と言うのだった。

それを聞いてもう片方は「確かになあ」などと相槌を打った。

僕にはその言葉の意味がわからなかった。
「それって、今の仕事そのものにモチベーションが湧かないってこと?」と返した。

「そうだよ、そんなもの最初から無い」
要するに仕事は仕事で、社会的な意義やその仕事そのもののやりがいよりも、生きていくことや娯楽、家族のために働いているという考え方だ。

その考え方を否定するつもりは無いけれど、
僕の性格に合った考え方ではない。
僕は好きなことしかできない。
好きなことだけして生きてきた。

そして教育で社会を変えようと思って生きている。
だから教育に対して確かな哲学があるし、それに合致しない会社や仕事にはモチベーションが湧かない。

それは個人の性格にもよると思うのだが、はっきり言って楽しくないことを、その後の楽しいことのために我慢して働くことは大きなストレスを伴う。
それは甘えなのかもしれないという気持ちが、結局は適応障害という結果に繋がったような気もする。

そして、会社の理念や業務内容などを気にせず、或いは自分とマッチせずとも我慢して働いている人と、僕と同じように好きなことじゃないと意欲が湧かない人、その比率はそこまで偏っているとは思っていなかった。

しかし、どうもそんなことは無いらしいことが彼らの話を聞いていてわかった。

そのことがショックだったのだ。
自分が少数派だったから、と言うよりも、
自分がとんでもない甘ったれた理想論を掲げた子どものように思えたことがショックだった。

思えば休職中の職場でもそうだった。
利益重視の企業とは異なり、学習機会に乏しい子どもに学びの場を与えるという社会課題に対してコミットする企業だったから、
僕は他の社員たちに対しても勝手な期待をしていた。

単純にお金を稼ぎたければ他の会社に行けば良いのだから、
ここで働いている人はみな自身の教育観を持って働いているに違いない、と。

しかし、働いている中で上司や同僚に「働いていて楽しそうで羨ましい」「あなたのように実現したい教育の理想像を持ってる人は少ない」などと言われた。

正直失望は大きかった。
それぞれの教育への理想をぶつけ合い、切磋琢磨していける環境だと思っていたからだ。

しかし、それはないものねだりで、「仕事は仕事」として捉えて
自身の価値観と多少異なっても我慢して働く人が大多数であるらしいことが、
20代後半になってようやくわかった。

それが大人になるということなのかもしれない。
僕は大人になりきれない大きな子どもだった。

けれど、そう自分に言い聞かせてもモヤモヤは晴れることは無く、しんどさは募るばかりだった。

「この世から生きづらさをなくす」
これが僕の人生のミッションだったはずが、僕自身が生きづらさを抱えて生きている現状にいることを、
この時はまだ気付くことができなかった。


小野トロ



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