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本棚整理したら、いまの自分の心に響く情報に出会い始めた。

2023年10月、本棚を整理して、未来の自分に渡してあげたい本を残した。

ニューエイジ系のソウルメイト云々本や、好きなことをして稼ぐ云々のワーク付きの本とか、それらから派生する引き寄せ本とか、スピ系の人が書いた量子力学云々本あたりは、手放した。

その件については、このような記事を軽く書いている。

2024年1月。整理後の3ヶ月を振り返ると、今の自分の心に響く本や記事に数多く出会えていると思う。

本棚の整理ができるほどに、必要とする情報の取捨選択基準が変わったのだから、当然起きうることなのだろうけれど、ちょっとした転換ポイントになりそうだから、いくつかの例とともに、書き置くことにした。

個人的に心に響いたフレーズを、1個だけ添える。1個だけ。。

・哲学書簡

キリスト教徒でありながら、生涯反教会・反封建主義の立場を貫いたフランスの思想家ヴォルテールが、亡命先のイギリスから故国の友人にあてた書簡形式の作品。「詩人としてフランスを立ち、賢者としてフランスへ戻った」とされるヴォルテールが、イギリスの哲学、宗教、文芸、科学、政治思想等との比較から、フランス旧体制の愚昧と迷妄を、おしゃれかつピリッと痛烈に批判している。当局からは焚書の対象となったが、進歩的な陣営から圧倒的な支持と歓迎を受け、各地で版が重ねられたという。

十分に読みこなすためには、18世紀のイギリスとフランスの政治的背景や、ベーコンとデカルトの思想の違いなどについて、基礎以上の知識を持っている必要があると思う。私の理解度は高くはないのだが、ヴォルテールのヴィヴィットな驚きや、フランスを見捨てていないからこその毒舌や皮肉が、ライブ感たっぷりに味わえるのが魅力。

我々自身への愛が、他人への愛を支えているのだ。
中略)
各々の動物が自然から享けたこの自己愛こそが、他人の自己愛を尊重せよと我々に告げるのである。法律はこの自己愛の手綱をとり、宗教はそれを純化する。

書簡二十五の十一 パスカル氏の「パンセ」について

パスカルの悲観主義を、皮肉たっぷりに批判している。パスカルは、人間が自己へ向かうことで、不正が起き、戦争などの無秩序を生み出していると主張しているのに対し、ヴォルテールは、自己へ向かって何が悪いんだ、自己に向かう、つまり自己愛があるからこそ、社会活動につながり、人間が相互に求めあうのだ、それが人間社会の基本だ、と主張し、このフレーズが出てくる。

・人類史の精神革命

伊東俊太郎著。ソクラテス、孔子、ブッダ、イエスによる精神革命を、その時代背景や生育環境等を踏まえて丁寧に説明しつつ、この4つの精神革命には、人間相互を根源的に結びつける「ともいきのきずな」が共通項としてあるとする。「世界をいかに生きるべきか」の宗教と「世界がいかにあるか」の科学は、互いに無関係ではないことや、人間と自然とが共通進化する「宇宙連関」を考察の中心におくべきことなどが述べられている。

人格神による創造など信じないが、そこにはやはり何か一種のsomething greatを感ぜざるを得ない。それを「カミ」とよびたければよんでもいいが、それは何も神秘主義に陥るものではなく、学問的努力により一歩一歩解決されてゆくべき偉大な事実なのである。

人類史の精神革命

something great、大いなる存在とは、スピリチュアル分野でよく触れられる概念なのだが、このような堅い著者による堅い本で、緻密な研究の末に、やはり、そういうものがあると感じる、と触れられていることが印象深いし、勇気づけられる。

私自身も、政治的イデオロギーと結びついたスピリチュアルには嫌悪感を持っているが、虫の知らせとか、偶然という必然をもたらす、見えない世界の何某かはある、と思ってはいるのだ。

「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」(西行)的なもの。

・九月の『読む』ラジオ。

プロフィールによると、「ピン芸人、九月の読むラジオです。頂いたおたよりにおすすめのコントを添えお返事します。」とのこと。youtubeとかもあるらしい。

もっぱら、主に若者からのおたよりへのお返事を読んでいるだけのライト読者が言うのは気が引けるが、投げかけられる人生相談に対する芯を食った解像度の高さと、骨太で血の通った文章が、とても目を引いた。

誠意を尽くしてゼロ回答みたいな世界とは一線を画していて、素晴らしいと思う。

知恵袋でかっこよく相手を黙らせて何になるんだ。意味ねえ。馬鹿じゃないか。走れ。外を走って来い。マジで走って来い。いますぐ走って来い。自分に身体があることを思い出して来い。絶対に忘れてるから。生きるのはその身体なんだから。身体から離れるな。走れ。

2024年1月16日のポストより

そう、自分に身体があること、忘れてる人多いんだ。占いとかスピに依存している人によく見られるよ。

・松岡正剛氏の千夜千冊シリーズ。

単なる書籍紹介にとどまらない、古今東西オールジャンルの縦横無尽に張り巡らされた糸がうごめく生きている図書館。あれもこれも芋づる式に読みたくなってしまう。なんだこれは!と興奮した。

WEB上の記事は無料で読めてしまうが、それは、隙間時間にドロップ缶からひと粒取り出す感覚で読むものとして、別途ストック用に、テーマ別に編成された書籍も、Kindleでまとめ買いした。紙でも欲しいのだけれど、グッと我慢している。

災害や被害はわれわれの使う言葉に選択を迫るのだ。もっと本気でいうのなら、災害とはわれわれが「概念」の総点検に立ち会わされるということなのである。それができないメディアやジャーナリズムなら、娯楽やスポーツでお茶を濁したほうがいい。

1459夜 河北新報のいちばん長い日
震災下の地元紙

年初に能登震災に見舞われた2024年1月のいま、ひとつ取り上げるならこれ。東日本大震災に際しての、地元紙の記者たちの動静や葛藤がわかる。あれから12年。SNS全盛期のいま、メディアやジャーナリズムのプロフェッショナルは言葉の選択に気を配っているだろうか?情報伝達の主役になっている面もある一般市民が、災害に際して、使う言葉ひとつ一つを、本当に選択しているであろうか?私も自問自答している。

バックナンバーの総覧↓

たどり着いたきっかけは、いわゆる関史観で検索した際にヒットしたこちらの記事「物部氏の正体」。国譲り神話に対するよくある見方も変わる。↓。

つらつら書いていて気がついたことがある。

本を含む情報というものには、通り過ぎゆくものと、ストックされるものがあるように思う。

通り過ぎゆくものは、知識としてストックされるというよりは、風のように自分の中を通り抜け、余韻を残し、何かの拍子に浮き上がってくるようなもの。

ストックされるものは、必要になったとき、任意に引っ張り出したい知識として、ラベルのついた箱に入れておき、検索したら見つかる状態にしておくようなもの。

どちらも必要で、どちらも好きだな。
心からそう思っている。

今は、とくに前者。通り過ぎゆくものに触れる時間みたいだ。

読みたい本に出会えること、読めること自体に感謝。

1年後、また、本棚の整理をしてみよう。

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