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肉痕

 彼女が私の頬を踏むとき、鼻腔には甘いクッキーの香りが拡がる。ふみ、ふみ、と心地よく刻まれるステップが、至上の目覚めへと誘う。
 あなた、もう朝ですよ、はやくカリカリちょうだいよ、と唸り声をあげ、得意げな表情で見下ろしてくる女王。奴隷と化した私は、今日も女王を腕に抱き、キッチンへと向かう。

 これが、私と飼い猫との毎朝のルーティン。
 ある朝、彼女は甘い香りと共に、朝の日差しの中へと消えてしまった。

 無機質な電子音が鼓膜に響き、目もやらず叩き殴る。寝ぼけた瞳には、カーテンの隙間から射し込む青白い光。また朝がきてしまった。この嫌な事実と向き合うのは、もう何度目だろう。
 彼女がいなくなってから、私の日常は色を失い、とてつもない速さで一日一日が過ぎていく。   
 私は未だに、あの幸せだった生活に取り残されているんだ。
 目覚まし時計のアラームを消して、ここにあったはずの頬を踏む肉球や、太っちょ茶トラ猫の温もりを思い出す。
 元気にしているのだろうか。元々野良猫だったわけでもないし。寒空の下、今日もまた、朝ごはんを食べて、彼女を探しに近所の猫の集会所である公園へと向かう。

 人は、誰かを忘れる時、順番があると言われている。声、姿、触覚、最後は匂いである。小さい頃大好きだったおばあちゃんの匂いや、学生時代クラスメイトの間で流行っていたフレグランスなど、街中で偶然似た匂いと遭遇すると、当時の自分と巡りあえる。

 私は、彼女の匂いが甘いクッキーで構成されていると知っていた。デパートへ行って、高価な香水屋さんへと行ってみる。店員さんにクッキーの香水はあるか尋ねると、不思議そうな顔で「ないですねぇ」と言われた。市販のチョコクッキーを買ってみたが、深く吸い込みたくなるような焼きたての香りはしない。私は、探し歩いても見つからなかった香りを自分の力で作ることにした。

 簡単なクッキーの作り方と材料を調べ、肉球の型取りを購入した。ダマにならないよう丁寧に混ぜ、命の源をこねる。手形に切り取られ、順調にオーブンの中で焼かれていくクッキーは、徐々に彼女に似た匂いを発する。あたたかな久々の再会だ。
 焼きあがる間に、肉球の元になるピンク色のチョコレートを作ることにした。溶かしたホワイトチョコに少しずつ食紅を加える。チョコは私の記憶より、少し赤みが強くなってしまった。
 オーブンから取りだし、冷めた頃にチョコで肉球を描く。
 完成した温もりのある猫の手を一つ口に運ぶ。
あぁ、食べたことはないけれど、こんな味だったのかもしれないなぁ。
 あまりにも長く彼女に飢えた身体は、パクパクと養分を取り込み、あれほど焼いたはずのクッキーは残り数枚となってしまった。私は、ソレを手に取り、無意識に左頬へと押しつける。いつも踏まれていた箇所のはずなのに、そこに拡がるのは硬い違和感。私は、自分がとった行動に気持ち悪くなり、即座にクッキーを口に放り込む。
 手を洗いに洗面所へ向かうと、頬にはチョコレートが溶けて血肉の痕が映り込んでいた。


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