『空』の思想と、あとコトバ遊び
以前書いたnoteで、仏教における『空(くう)』という考え方を取り上げました。
分かるような分からないような、といった感じでしょうか?
んー、今ならもっと分かりやすく説明できる気がします。
いや分かりにくいかもしれません。とりあえず書いてみます。
まず、あらゆる存在のアイデンティティは、全て相対的な比較によってのみ評価されうるということを考えてみましょう。
分かりやすい例で考えてみます。
日本で身長が190cmの人は「高身長」という特徴を持ちますが、もしその人が、全員が身長190cmの村へ行ったら、その身長は特徴になりえませんね。
それは、海や川や湖があるから「陸」という概念が認められるのと同じです。
いや確かに、もし世界に海も川も湖も無かったとしてもその「陸」は存在するはずなのに、海や川や湖が無いのなら「陸」という概念は定義できないので、その「陸」は「陸」としては存在できないのです。
光があるから闇があるのと同じように、暗いところがあるから明るいところがあるように、髪が生えている人がいるからハゲは存在するのです。
あらゆる存在は、それではないあらゆる存在を認めることで、その異質性をもってはじめて存在し、しかし、その別の存在もまた別の存在と相互に関わり合うことで存在していて、
したがって、あらゆる存在はそれ単独で存在しているようで、それ以外の存在なしにはそれとしての存在を認められないのです。
それはつまり、何かの存在を認めるということは「境界」をつくるということであって、結局のところ、概念として存在しうるのはその「境界」だけなのかもしれません。
あるいは、「コトバ」が先にあって「モノ」が後にあるということを考えてみましょう。
例えば、「蝶」と「蛾」という言葉は、「蝶」と「蛾」という二種類の虫がもともとあって、それらを区別すべく名付けられたように考えがちですが、フランスでは、「蝶」という言葉も「蛾」という言葉もなく、それらを含有する「Papillon」という言葉しか存在しません。
これは、もともと「蝶」と「蛾」という別々の概念があって、それらをまとめて「Papillon」と呼んでいるのではありません。
フランス人には、もともと「蝶」という概念もなく「蛾」という概念もなく、ただ「Papillon」というひとつの概念しかないのです。
したがって、「Papillon」言語圏においては、「蝶と蛾の違いは?」などという問いは起こりえないのです。
とすると、「蝶と蛾の違いは?」という問いは、「蝶」や「蛾」という「モノ」を考察対象にしているようで、
実際には、「蝶」や「蛾」という「コトバ」を考察の対象にしているに過ぎないということになり、これは非常に面白いことだなと思います。
例えば、近年盛り上がっている「お金とは何か?」という問いも然り、あらゆる実在は「コトバ」によってその概念を認識され、さらに「コトバ」を使って思考される以上、
「コトバ」によって表現された問いをどれだけ考えたところで、その「モノ」は確かに存在しているはずなのに、結局どれほど考えてもその存在の実体たる本質部を捉えることはことは叶わず、ある意味、「コトバ遊び」の域を出ることは絶対に出来ないのです。
これらは、量子力学において、観測することで初めて対象の実在が決まるとか決まらないとか、そういう議論にも近いものがありますが、
とにかく、どんな存在もそれは確かにそこに存在しているはずなのに、全てが相対的に評価・定義・理解され、他との相互的な関係をもってその存在が成立し、あるいは言葉によってのみ認識され、思考されるのです。
全てのあらゆる事象は、確かにそこに存在はするが、しかしその実体や本質は存在しない、この状態を、我々は『空』と表現します。
他の存在から認識されたり、定義されたり、他の存在と比較したり、関係性をもったりできる部分(イメージとしては、境界・殻・表面・接点・輪郭・インターフェイスといったような部分)だけが存在しうるというイメージをすると、なんとなく『空』という状態を思い描きやすいかもしれません。
この世の全ての存在は『空』であると理解してみると、ちょっと見え方が変わってくる気がしませんか。
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