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実は、"仏教"は煩悩を取り去る方法を追求する学問であり、"仏様"は人間です。

神も仏もあるものか!!!、という文章にもあるように、日本人は"神"と"仏"を同列に扱っており、よって、仏教自体も宗教として認識していますが、実は、"仏教"は煩悩を取り去る方法を追求する学問・哲学であり、"仏様"は人間です

まず、仏教からですが、現代日本では主に死者を弔う宗教、の認識になっていますが、あれは江戸時代に人口把握・戸籍管理のための檀家制度が施行されたことによる名残だと自身は認識しています。

が、本来、仏教は煩悩を取り去る方法を追求する学問・哲学、です。で、煩悩のなかで一番大きな割合を占めるのは、死、に関してのことなので、そこと深く結びついて今のような形になったと思われます。

次に、仏、ですが、これは煩悩を取り去ることを体得した、つまり悟りを開いたもの、になります。よって人間なのです

よって、仏教におけるお坊さんは、求道者であり、学問・哲学を極めんとするものであり、目指すところは仏であり、煩悩を取り去る方法を研究し、一般庶民にその方法を共有するものであり、その昔は学者として扱われていたわけです。

さらに、煩悩を取り去る方法、つまり悟りを開く方法は複数あり、それが宗派として分かれている、というわけです。

悟りを開く方法としては、例えば、
・あまりに難しい学問体系になってしまい、一般庶民には理解できないので、南無阿弥陀仏と唱えれさえすればよい、の容易さでバズりまくり、戦国時代に一向一揆という一大勢力にまでなった浄土宗・浄土真宗
・瞑想、でおなじみの禅宗(臨済宗、曹洞宗)
と色々あり、各宗派の理論を比較みるのもなかなか面白いです。

ちなみに、自身の実家は調べたところ曹洞宗だったので(宗派に全く思い入れはありません)、瞑想に過去チャレンジしたこともありますが、悟りを開くのは個人個人によって一番よいやり方がありそうです。

ところで、個人的に、現在一番仏に近いお坊さんと認識しているのは、下記の塩沼亮潤さんです。

塩沼亮潤さんは、千日回峰行(ほぼ千日、険しい山を歩きたおす行)と、四無行(9日間、食べず、飲まず、寝ず、横にならずの行)を成し遂げたお坊さんですが、死にかけた、とインタビューや著書でありますが、個人的感覚では、恐らく一時的に死には至っており、で、それを乗り越え生還しています。よって実際に、死、を体験されることで、死ぬのは怖くない、状態となり、死に対する煩悩はなくなっておられると思います。(上記は真言宗の行であり、真言宗は"お遍路"といったような肉体的に負荷をかけて悟りを開く方法の宗派のようです。)

と、仏教や仏について書こうと思ったきっかけは、最近、仏教系の展示会が続いていることが要因です。


美術館やお寺で展示されている仏教系の彫刻や絵画は、悟りを開いた状態の人間を具現化したもの、になります。で、リアルな人間を描いたものは、例えば下です。

悟りを開いた状態の人間を描いた仏像 in 東京国立博物館
悟りを開いた人間の表情

が、リアルやつを祈るには違和感があるので、信者獲得のためには、祈りがいのあり、かつ、人間に近からず遠からずなやつ、も作成される必要があるのです。

祈りがいのあり、かつ、人間に近からず遠からず、な仏像 in 国立博物館

ここで、仏像を作る仏師において、悟りを開いていない者(仏師)が、悟りを開いた状態の人間を想像しながら、人間に近からず遠からずな形で描く、という行為自体が色々な矛盾をはらみつつも、実はこの行為は仏師にとって悟りを開くための行為(修行)のようなものなのかしら?、と禅問答みたいなことを考えつつ、悟りを開くには日々を一生懸命生きるしかない、という結論に最近達した、中年ゴリゴリ理系でした~。




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