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力が抜けない私たちに送る宮崎駿の「君たちはどう生きるか」

先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見てきた。

皆、いろいろな意見があるので、わたしもこの映画の感想を書こうと思う。

わたしがこの映画を見て感じた事は、宮崎駿はもうみんなのために頑張るのをやめたんだなっということでした。

これまで、皆の腹を満たすための映画、つまりはただ消費されるための映画を作ってきた。宮崎駿自身は、その自分の作る映画の意図がしっかりと見る人の心に届いているとそう信じて製作を続けてきた。

でも、その皆の心の奥深くにある光に届くと信じて書いてきたもの、そのほとんどが、ただ消費されていたということに気づいたのではないかと思う。

そう感じさせるシーンの一つとして、映画の中に出てくるお皿やフォークを持つ手を後ろに隠して立っている大量のインコがいた。

あのインコは、皆、自分の腹を満たすために、宮崎駿という光を食べようとしている私たちを象徴しているようにわたしには見えた。

自分で自分の腹を満たす事をできないものに、これまで自分は必死に自分の身を削って、その皆の腹を満たすためのエンタメを作ってきた。

皆の腹をおなかいっぱいに満たしてあげる事が、宮崎駿にとっては最高なる善であったとわたしは感じた。

でも、その善、つまり理想として高く掲げ、それを自身の原動力にもしていたはずのものが、宮崎駿の中で崩れた。

彼はあるインタビューで、自分の作ったものの中に多くの子供たちを閉じ込めてしまったと告白している。

いいものとしてこれまで信じて作ってきたものが、自分でも思ってもいない方向へと振れてしまった。

意外な方へと、自分の作ったものが新たな道を作ってしまった。それは宮崎駿の意図するものとは違っていた。

自分の情熱を一心に傾けて取り組んできた仕事が、自分でも思わぬような形で、全く予想もしていなかった状況を生み出してしまった。

その事に対して宮崎駿は心から後悔していると告白している。

それは彼の作った「風立ちぬ」という映画の中でも描かれている。

情熱を持って取り組んだ仕事、自分が魅了された世界を一つの形にすること、それが逆に悲劇をもたらした。

この風立ちぬの映画の中では、飛行機を作る事に魅了された主人公が、ものすごい好奇心と情熱を持って、飛行機を作る。でも、そこでできあがったのは、人を殺すための戦闘機であったということ。

わたしは今回の映画の中で産屋とか禁忌という言葉に強く引っかかった。

後は塔の中にとらわれてその塔から出られなくなるという言葉にも強く自分の中の何かが引っかかった。

わたしも創作、芸術をする一人の人間として、思うことなのだが、彼はこの映画のなかで、ものを作り出すこと、そのものを作り出したいという好奇心を持った事、その事に対して、強い罪悪感みたいなものを持っていると感じた。

私たちは犯してはならないタブーを犯した。触れてはいけないものに、触れてしまった。

それは自分の中にある好奇心故。

でも、この好奇心を持ち、この好奇心のままに犯してはいけない禁忌の領域へと踏み入った自分を宮崎駿はこの映画の中で罰している、そんな気もした。

アニメ、つまり、宮崎駿もまたあの塔に魅了され、その塔から抜け出ることができなくなった一人でもあるといえるような気もした。

私たちは自らの好奇心のままに突き進み、そして、犯してはならない領域に踏み込んだ。

そして、それをとても素晴らしいものとして、自分はこの世界にその世界を表した。

でも、その事によって、自分は今あるこの世界をいい方向へではなく、悪い方向へと導いてしまった。そんな宮崎駿の声がわたしには聞こえた気がした。

芸術をやる一人の人間として、今一度、芸術とは何かということを深く考えさせられる作品の一つになった。

私たちはきれいなものに、夢中になって、それを必死で追いかけて、そのきれいなものをこの世界に暴露し続けている。

それで本当にいいのか?

きれいなものの虜になって、それに魅了されているうちにそのものが持つ悪なる部分、不合理な部分を見逃してはいないか?そんな事を強く問いかけられた気がした。

芸術。それは人間として犯してはならない禁忌を犯し続けること。でも、その禁忌を犯し続け、そこで快楽を得ようとするなら、それ相当の犠牲もまた伴うものである。

そんな事を言われた気がした。

自分たちがやっている事は決して善100パーセントではない。それを善100パーセントであると信じて生きていけば、いつか、その伸びきった鼻はへし折られる。

素晴らしいと思って、きれいだと思って、創造し続けたその先で、ものを作る人間、あるものに、命を与える人間とはそれと引き換えに大きな代償を払わなければならない。

ものを作る人間、それには、それだけの大きな責任がある。

意識の下の無意識という深くてどこまでも続いていく世界から何かをこの地上世界に持ち帰る事は、無傷ではできない。

わたしたちは、いつからかいとも簡単に無意識から宝を地上世界に持ち帰る事ができると思い込んだ。それもいとも簡単に・・・。

宮崎駿の今回の映画は、わたしに芸術とは人間が本来犯すべきではない部分に触れる事なのだ!ということを教わった気がした。

犯してはならない領域に踏み込みたいという自分の中にある飽くなき、探究心、そして好奇心、それが世界を豊かにし、そして前進させてこいた事も事実。でも、それ以上に、そうした飽くなき探究心や好奇心は、この世界も壊してしまうそうした危険性も大きくはらんでいるということをわたしは腹に据えた。

それを踏まえた上で、まだおまえは芸術、ものを創造する世界へとその足を踏み込ませるのか?そんな事を言われた気がした。

深く潜れば潜るほどに、素晴らしいものはとれるかもしれない。でも、その素晴らしいものは、いつの時も万人にとってよき物とは限らない。だとしたのなら、自らの好奇心と飽くなき探究心で突き進み、作りあげてきたすべてに意味はあったのか?

そういった宮崎駿のさみしく、そして虚しい気持ちが終始映画の中で表現されていたように思う。

彼はずっと力を入れて生きてきたんだとおもう。皆のために、子供のために、そう言ってずっと自分の身を犠牲にあげて皆を喜ばしてきた。

でも、今回はその皆のための犠牲になることはもうやめて、自分のためにこの作品を作ったようにも感じた。

皆のために力を入れて生きてきた生き方から、自分のために生きるとそう自らの生き方をシフトした。そんな印象を強く受けた。

自分で自分をまず満たそう。その上ではじめて外部にある人間を満たす事ができる。

だったらまずは、自分の腹が何も満たされていないということを自覚する事が先決であり、その状態を理解した上で、その腹を自分の力でまずは満たす事に今回踏み切ったのだとわたしは感じた。

宮崎駿は、今回の映画を通して、わたし個人にとっては、皆のために自らを犠牲にあげてもう頑張る必要はないとそう教えてくれたそんな気がした。

皆を満たす事が先ではない。皆を満たすために力を入れて生きる事ではなく、そういった生き方はもうやめて、力を抜いて、もっといえば、もうその力は捨てて、ただ自分のために、まずは自分のその腹を満たすために生きようよとそう伝えてくれた気がする。

この映画を見たわたし個人の感想としては、なんだか体の力が抜けた瞬間だった。もう頑張らなくていいんだなって。人のために、誰かのために自分の身を犠牲にあげる必要はないんだなって。そんな事を強烈に感じさせてもらった。そんな映画だった。

宮崎駿もまたある意味、力が抜けたところで、これからの作品を作っていくんじゃないかななんて思ったりもした。そんな力が抜けたところで作られていく作品をわたしはこれからも大いに期待したい。

そして、自分もまた力を抜いて、フラットな状態で今一度自分の作りあげる芸術作品に正対してみたいとそう思った。

外に向いていたベクトルを今一度、自分に向け返すということはそう簡単な事じゃない。

力を入れて歩み続けてきたからこそ、その外部に向けていたベクトルを自分の方に向け返す事ができるんだということもこの映画を通して学んだ。

自分の方にベクトルを向け返すとは、これまで外の世界に投影していた自分の心の状態を全部自分のものとして自分に引き戻し、それを自分の問題として引き受ける事に他ならない。

宮崎駿はそういった意味では、やっと自分の隠していたいろいろな部分を自分のものとして受け入れ、そして許すという至高の領域に達したのではないかとも思えた。わたしにとっては、そんな彼の心の中を少しかいまみる事ができた作品だった。



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