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やってくるのはユートピアか?それともディストピアか?

”わたし”が在るなんて考えは、わたしたち人間の持つある種、最も傲慢な考えなんじゃないだろうか?

”わたし”なんてない。

それが、自然。

でも、この自然の考えを全否定して私たちは、自分を在る存在だという。

これがどれほど傲慢なことかを考えてみることもない。

皆、自分が在るという事を当たり前の様に感じている。

何をするにも、私が、わたしがとまず何を言うにもこの私を念頭に置く。

私が、私が、私が。この言葉が人間の持つ謙虚さ、これを失わせたことはな間違いないと思う。

自然を眺めてみてほしい。

一体どこの樹が、自分を主張しているだろうか?

私たち人間は自然のこうした自らを主張しない生き方(謙虚さ)を学ぶ必要があるんじゃないかと強烈に感じる。

わたしが、私がというとき、その私は自我インフレを起こしている。

私が何かする、こういう時、人は自分の持つ力を過大評価している。そんな気がしてならない。

私なんて何もできない。もっと言えば、その私なんて、雲の様に常に形を変えて流れて消えて、又浮き出てくるようなもので確定的なものなんかじゃない。

だとしたら、その不確定な私に一体何が出来るというのか?

エゴで固まり切った私たちは、完全に自分を見失っている。そしてその自身を見失った私たちは、自分に力があるとそう誤認している。

力などない。だから、私たちはこの自然、地球に依存して生きている。この事実から目をそらし、生きていくならば、必ずいつの日か私たちは本当に滅んでしまう。

私たちは、常にこの自然と共に生きてきた。このことを忘れて、自然を自分から切り離して考えれば、わたしたちは滅びる。それは確実。

何もできない。常に自然、地球に依存して生きてきた私たちは何もできない。自然があったから、この地球という惑星があったから、今の全てがわたしたちには与えられている訳で、そのことを忘れて、この自然も、そして地球も自分たちによって作っているのだ!といったこういった考えを持った時、私たちは必ず死ぬ。

これは脅しでもなんでもない。

私たちは自然から離れては生きてはいけない。ラピュタに出てくるシータがこうした警告を発している。

これはまさにその通り。

何もかも全て、私たち人間が作り出してきたわけではない。私たちは自然に学び、そしてその自然と共に進化してきた生き物。

でも、それが今その自然を自ら切り離そうとしている。これは危惧されるべき問題だ。

自然から離れれば、私たちはある種もう人間とは言えない。

人間であるという事は、その大前提としてこの自然とつながっているという意識を持っていなければならない。人間とは自然とともに生きる人。

ならば、この自然を切り離して生きていくとするなら、その時もう私たちは人間でもなんでもない存在になる。

本当の意味での叡智、それは自然から与えられるものである。

この自然から与えらえる叡智を元に、世界を構築していくのならこれから先、私たちは自然との共生という世界を構築していくことが可能になると考える。

でも、この自然が人間に与える叡智を無視して、人間自らが頭で考えた知識でこの世界を創っていくなら、これから先に訪れる未来はディストピア的な世界だ。


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