アニメに学ぶ私たちの在り方
正義感もあまり強くなりすぎると、悪になる。
何が正しい行為なのか?なんてことは人それぞれ違う。でも、この社会は、こうする事が正解だ!という答えをいつも明確にして、それに従わない人をまるで犯罪人の様に扱う。
この社会というのは、自分たちの言う事を聞かない者たちを悪者にしたてあげて、その者たちをこの社会のスケープゴートにしている。彼らに国民の不満や、怒りが向くように全て仕向けられている。
私たちが今抱えている不満や、怒り、それが国家に向かない様に、私たちは今自粛しない人に意識が向くように、そうした人たちに自分たちの怒りや不満をぶつける様に、全てコントロールされている。
私たちはちゃんと自粛しているのに、一部の人間がその自粛を守らない。だから、いつになってもこの事態が収まらない。国民のこういった不満や怒りを今この国は、一部の人間に向くように、色々なメディアを使ってコントロールしている。
私たちのもっと上層部に位置する人間というのは、こうした下層民の私たちが互いに憎み合い、抗争を起こしているのを高笑いしながら見ている。
この世界というか、社会というのはある種のゲーム。私たちは、上層階級の人間によって作られたゲームの中で、彼らの思う様に操作され、動かされてる。その事に私たちは何も気づかない。
何もかも全て計算されている。何をどうすればいいのか?何をどうしたら、国民の目が国に向かずに済むのか?何をスケープゴートにすればいいのか?国民が暴動を起こさない様にするには、何に、彼らの目を向けておけばいいのか?そう言う事を全てわかってこの世界を、国を動かしている人がいる。このゲームを面白おかしく操っている人がいる。
宮崎駿監督の天空のラピュタという話を皆知っているよね?あの話には、ムスカという人間が出てくる。あのムスカは、その下に位置するラピュタ探索の指揮官モウロ将軍を上手に操っている。でも、モウロ将軍は自分がムスカに上手く利用されているとも思っていない。何もかも全て自分の力で事を成している様に思っている。自分に力があり、その力により、全てを掌握したと思い込まされている。でも、それは本当は違う。モウロ将軍は、ムスカによって全く意味のないものを掴まされているだけ。でも、モウロ将軍はそれにも気付けない。そして、最後はムスカによって、無残にも殺されてしまう。
今の私たちはこのモウロ将軍の指揮する軍人に他ならない。私たち下層民は、目先の事で争いを起こし、互いに憎み合い、そこで抗争を起こしている。その間にムスカの様な人間はもっと他の事を遂行している。つまり、上層階中の人間というのは、下層民の目を全く違う所に向けている間に自分たちの目的とする事を遂行しているって事になる。
私たち下層民に今、目を、そして意識を向けて欲しくない何かが、この世界にはある。私たちは最も低次な所で、上層階級の人間によって仕組まれた抗争をしているに過ぎない。私たちが、コロナというものを機にたくさんの問題を起こす事によって、民族間、国家間で問題を起こしてくれていれば、その間に上層階級の人間が行おうとしている事は達成されるってことになる。
ラピュタに辿り着いて、そこの財宝を集めるのに必死なのが今の私たち。ムスカはそんな財宝には興味はない。彼はもっと力のあるものを求めている。
彼はラピュタに辿り着くために、モウロ将軍率いる軍隊を利用した。自分の目的を果たす為に、彼らを利用した。そして彼らにたくさんの財宝を掴ませた。私たちは、今このモウロ将軍の様に、目の前に在るたくさんの金銀財宝にしか価値はないと思っているから、その財宝が目の前に沢山現れれば、あの映画の中に出てくるモウロ将軍の率いる軍人の様に、その金銀を手にして皆大笑いして満足するだろう。でも、この世界には、そんなものよりももっと価値の高いものが在る。あの映画ではそれが大きなラピュタ石という設定になっている。
このラピュタ石をムスカは狙っていた。それを手にするために、彼はモウロの率いる軍人を巧みに利用した。私たちは、今あのムスカの様な人間によって、全てコントロールされている。上層階級の人間が求めるものを手にするために、私たちは今民族間で抗争を起こす様に、国家間で戦争を起こす様に仕向けられている。私たちは低次な戦いに身を徹する様に仕組まれている。
私たちがそうした事をしている内に、上層階級の人間はもっと大きな目的を果たす為に動いている。
パズーと、シータを追ってドーラの子供たちが、街でパズーの親方と殴り合いのけんかをして、互いに腕自慢をしている間に、パズーとシータは、親方の家の裏口から逃げる。これを、ドーラは見逃さない。
大きな混乱を起こし、皆その中であーだのこうだの言っているが、その裏では、この様に何もかもが動いている。それをドーラの様な目を持ってっ見つめなければ、この世界の真実なんて見つける事は出来ない。
私たちは、街で、パズーの親方とドーラの子供たちが腕自慢で殴り合っている所にいて、あーだのこうだのいっている人間に過ぎない。見るべきは、もっと違う所。目の前にある事だけに捉われていたら、私たちは何も見えない。何か大きな事が起こった時、その裏では必ず何かが動いてる。
大きな暴動、今回の様なウイルスによるパニック。震災、戦争。そうした裏では、必ずもっと大きな事が動いている。
宮崎駿監督のラピュタという映画はそれを教えてくれている。
見るべきところ、意識を向けるべきところは、目の前にある事では無い。その裏にある動きをその目で捕らえる事。これが大事だ!って事を宮崎駿監督は教えてくれているそんな気がする。
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