マガジンのカバー画像

生きる

90
ー破壊そして再生へー
運営しているクリエイター

#人生哲学

わたしたちは人生に意味を見いだすことを求めている

今日もV・Eフランクルについてかこうと思う。 以下に示すのは、フランクルの言う人間の根本意思の3つです。 フランクルは、快楽への意思を生理的欲求年、力への意思を社会的欲求、自分の提唱する欲求を実存的欲求とした。 誰もが皆、自分の人生に何らかの意味を求めている。しかし、その意味の充足がなされないとき、このフロイトとアドラーのそれぞれの欲求が生じてくるとそうフランクルは説明している。 まさに、その通りだなと彼の本を読んでいて深くうなずけた。 自分の周りもこのフランクルの言

<終末の人間>とはわたしたちのことなのかもしれない

ニーチェのこの言葉を知っていますか? この言葉にはじめて触れた時、何とも言葉にしがたいものをニーチェにつきつけられたそんな気がした。 今の時代は、まさに虫けら同然の人間ばかりになってしまっているのかもしれない。ぬくぬくとした場所に逃げ込みというのは、自分を誰も否定しない、言ってみれば、自分ワールドの事。この自分ワールドの中で暮らしていれば、誰とも接触することはなく、ただ自分だけが幸せでいられる。 ニーチェは、この自分ワールドの中に自分に都合の良い人間を引き入れて、そのも

日本人という種(形なきものの形を見、声なきものの声を聞く)西田幾多郎

この言葉は今この現代を生きるわたしたちにとってとても重要な言葉であると私は考えています。 わたしたちは日本人でありながら、その思想は今や西洋の思想「有」の思想にどっぷりと浸かってしまっています。 西田幾多郎が言うように、東洋文化の根底には、「無」の考え方が潜んでいた。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった「無」を求める要求がある。 でも今現代を生きるわたしたちには、もはやこの西田のいう「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という事が出来な

類は友を呼んだ。

先日、街で一人のじいさんと出会った。野菜を買おうとしてうろうろしている所に声をかけられた。そのじいさんとなんだか意気投合してしまって、一緒にランチをする事になった。 どんな些細な出会いでも、その出会いは必然だ!とよく言う。大切なのは、その偶然の出会い、ちょっとした出会いの中に何を見つける事が出来るのかだと。 私は人と会う時に、その人がどんな人であっても、その人との間に自分との接点を探す。自分と出会う人が皆、偶然ではなく必然だ!とそう言うのなら、自分の目の前にいる人間は自分

人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。 ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか? 人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなもの

人生に屈するな、戦え。

往生際の悪さ。 私という人間は何処までも欲深い。自分というものを何処までも追求していきたい。今あるこの自分というものに、私はそう簡単に納得する事が出来ない。 周りを見ていると、皆いとも簡単に自分の人生に納得しているかのように見える。納得しているというか、もう自分の人生と闘う事を諦めてしまっているのか? 自分を生きると考えた時、そう簡単に自分の人生に納得する事が出来るだろうか?私は、自分のこの人生に負けたくはない。だから、一生この自分と闘い続けるつもりでいる。 これが自

表現という名の自己解放

自分の中から出てこようとするものを、この社会は出すなっていう。 余計なものを出すな。余計なものを書くな。表現するなって。 人に受けのいいものを、人に評価されるものを。そんな風に教育されて生きてきたけど、それじゃあ自分の中にあるものが私の中から出てこれない。 私の中にあるものは外に出たがってる。この私の中にあるものは、私が表現する事で、その表現に乗って私の外に出る。 彼らは私なしでは、この世界に出てこれない。 私は表現する事で、私の中に閉じ込められているものを外の世界

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス 鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギスに見るこれからの生き方

日本人ってのは、この3武将の中で言えば、家康の鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス思考だと思う。 ずっと、特に何をする訳でもなく、信じて待つスタイル。これが日本人の典型的スタイル。 未来は明るい。それを信じて、ずっとその明るい未来がやってくるのを待っているのが、日本人。日本人ってのは、自ら幸せというものを取りに行こうとはしない。ただひたすら、いつやってくるかもわからない希望に満ちた明るい明日を信じて待ち続ける。それが日本人。粘り強く、待っていれば、いつか必ずいい事がある。そ

過ぎたるは及ばざるが如し

自分の中に恐れの感情を持っている事はとても大切な事。 でも、この恐れの感情を強く持ちすぎていると、私たちは悪に転じてしまう。逆にこの恐れの感情を持たなすぎても、私たちは悪に転じてしまう。 ありすぎることは、悪であって、又、なさすぎるのも又悪になる。 人間として機能するには、この両端をバランスよく自分の中で維持しないといけない。 義務感。これも持ちすぎていては自分が破綻してしまう。逆に持たなすぎても、自分が維持できない。これも又人間が悪に転じてしまう一端となる。 罪悪

2D人間と3D人間(一般人の思考と大富豪の思考)

物事を平面的にしか捉えられない人は、2D人間。 物事を立体的に捉える事が出来る人は3D人間。 この両者が互いに理解し合う事は難しい。 2Dの眼で世界を見ている人に、3Dの世界の事を話したとしても、その人にとっては、それを2Dの認識でしか受け取れない。 お互いに話せば、理解し合えると言われるけれど、物事を平面的に捉えている人に、いくら立体的な話をしたところでそれらを彼らが理解することは出来ない。 見ている世界が全く違う。持っている視点が全く違う。だから、この両者が相容

愛とは相対的なもの

愛とは相対的なものであって、絶対的なものじゃない。 その時の感情によって、愛の価値などコロコロ変わる。絶対的な愛だと思っているのは幻。 私たちは相手が自分にとって都合がいいと感じる時、それを愛と呼んで、その相手を慈しむ。 でも、自分に都合が悪い時は、その相手を自分の元から振り落とす。そこに絶対的な愛などない。 絶対的な愛なんてない。あるようでそんなものはない。どこを向いても、そこにあるのは、自分勝手な相対的な愛。 その相対的な愛を、私たちは皆知りながら、それを認めた

パラダイムシフト (幻想から目覚める時)Truth and lies

そろそろ私たちは本気で自分の人生を生きていかないといけない。 本気で自分の人生に向き合っていかなければいけない。何もかも自分でしっかりと考えて、生きて行かないといけない。 そろそろ私たちは主体的に行動していかなければいけない。 仲間外れにされるのを怖れて、自分の意見を言わずに、全体に合わせて生きる。そういった生き方はもうやめなくてはいけない。 他と意見を揃えて、自分を押し込める。そんな生き方をしていたら、これから生きてはいけない。しっかりとした自分の意思を持って、そし

石化した大人になる前に(私たちが欲しいのは生きているという強い実感)

何でもかんでも楽しきゃいい!!ってのはある意味とっても危険。 ただ楽しきゃいいでよく考える事もなく、その場のノリだけで物事に突っ込んでいく事ほど危険な事はない。でも、実際問題、今はこのノリというか、その時のテンションだけで危険な事の中に落ちていく人が少なくない。 楽しい事だけしていたい。自分のテンションが上がる事だけをしていたい。苦労はしたくない。楽して生きて行きたい。そう言う事を言う人が最近富に増えた気がする。 とにかく楽しくしていたい。楽しく、そしてキラキラと充実し

私たちは決して美しくなんかない

人間なんてそもそも混沌としたものでしょう?それを美しく見せようとしたってそれは無理。元々、人間は混沌としていて何だかわからないもの。 これといった形を持たずに、混沌としているもの。だから美しかった。でも、今はその混沌さに秩序がもたらされてしまって、しかもその秩序が過剰になってしまって、私たちは全然美しくない。 混沌としていて、何もかもがめちゃくちゃでごちゃ混ぜになっていた。それが人間の持つ美しさの極みだったりするけれど、それが今はない。 今の人間はあまりにも自分を綺麗に