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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#社会

日本人という種(形なきものの形を見、声なきものの声を聞く)西田幾多郎

この言葉は今この現代を生きるわたしたちにとってとても重要な言葉であると私は考えています。 わたしたちは日本人でありながら、その思想は今や西洋の思想「有」の思想にどっぷりと浸かってしまっています。 西田幾多郎が言うように、東洋文化の根底には、「無」の考え方が潜んでいた。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった「無」を求める要求がある。 でも今現代を生きるわたしたちには、もはやこの西田のいう「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という事が出来な

進撃の巨人(壁の中の人間)

進撃の巨人の冒頭にアルミンが言う強烈なセリフがある。 この言葉は、この物語を見るものに対する著者の強烈な皮肉なのではないかといつも思わされる。 現代に生きる私たちは、今まさにこの状態。 今までが何もなかったから、これから先も特に何もなく穏やかに暮らしていけるだろうといった安易な気持ちで日々、大人たちは特にこれといった緊張感を持つ事もなく生きている。 このアルミンの言葉を聞くたびに、これと似たような事を言うエレンの言葉を聞くたびに、私は自分の心がえぐられる。 彼らの言

私から、私ならざるものへの移行

何もかもが解体されて、私たちはどんどん無気力になっていく。この流れは、これから益々加速する。 私たちは大切なものからどんどんとその身を引き離されて、解体されて行く。大切なものとの繋がりが段々と失われて行く。かつて自分と共にあったそのありとあらゆるものが、自分から切り離されていく。そしてそれらは徐々に自分から遠ざかっていく。そうしたものが自分の元から遠ざかれば遠ざかるほどに、私たちは、自分を失う。 今この時代はものすごいスピードで私というものを解体しようとしている。私という

死はキラキラと光っていつでも私たちを魅了する。

私たちは、毎日何かに追われている。毎日、毎日必死になって前に進んでいかなければ、後ろから大きな口をあけた社会という魔物が追いかけてくる。少しでも休んでいたら、その後ろから追いかけてくるその魔物に足を食われる。 私たちは自分ってものを失いたくなくて、必死にこの魔物から逃げる。 私たち人間というのは、この自分の後ろから追いかけてくる魔物から逃げる事しか出来ないのだろうか? 何故、毎日自分を追いかけてくる魔物と私たちは、対峙しようとしないのだろう?私たちは、ただ毎日息を切らし

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか

何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。 力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。 何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。 自分というものに、常に意識を向け

操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。 私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。 この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。 私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているそ

私たちは社会に飼われた社畜じゃない。人間なんだ。

皆、元の生活に戻りたいとそう言う。今せっかく自分が社畜から抜け出せるチャンスなのに、私たちは、又この社会に飼われた社畜に戻りたいという。 今、私たちは本当の意味での人間になるチャンスを得た。この社会に飼われた状態から、私たちは今抜け出すチャンスを得ている。でも、私たちはまだ社畜の状態にとどまろうとするというか、社畜に戻りたいとそういう。 自分に何の力も持たずに、ただ社会に与えられ誘導されるがままに生きるそんな世界に私たちは又帰りたいとそう言う。 自分の意思で動いているの

社会的タブー

いい大学に入って、いい会社に入って、良いパートナーと出会って、結婚して、子供を産んで、子育てをして、我が子を立派に育て上げて、その我が子が、孫を生んで自分は年寄りになって、皆に見守られながら最後を遂げる。 こうした形というかスタイルは一体誰が作ったんだろう?こうした生き方こそが、人間として最良の在り方だとそう提唱した人は誰なんだろう?もっといえば、こうした日本人共通というか、世界共通の意識を作ったのは誰なんだろう? 良きパートナーに出会って、そのパートナーとの間に子供をも

所有する時代から手放す時代へ(エコ的時代の到来)

私たちは今多くの物を所有しているが、これからはその今所有しているものの殆どが何の価値も持たない時代になってくる。 こんな事を言ったら、ほとんどの人は何言ってるの?とそう思うかも知れない。でも、こうした時代は確実に来る。 私たちはこれからエコなる時代に入って行く。あれもこれもそれも皆自分の物と言って所有していた時代はもうそろそろ終わる。これからはより多くの物を持つ事ではなくて、どれだけ自分の持っているもの、所有しているものを少なく出来るか?という時代が来る。というか、もう皆

上手く生きられないのは本当に私のせい?(強い刺激にさらされ続けた子供の脳)

幼い子供が、親と一緒にカラオケに行った。その時、その子はカラオケでかかる大きな音にびっくりして、嫌だ!と言ってその小さな手で耳を塞ぎながら、嫌だ!嫌だ!を繰り返す。 大人にとってカラオケで流れる音量はさほど気にはならない。でも、幼い子供からすると、あのカラオケの音は強い刺激になる。 何故、子供が嫌だと言って、その小さな手で自分の耳を塞ぐのか?それはその音が自分にとってあまりにも刺激が強いからであり、それは自分を守るための行為であると言える。でも、当の親と言えば、自分が歌う

虚構の世界で生きる私たち

私たちは教育される事で、何も考えなくなった。何もかも与えられるその知識を盲目的に信じ、自分で自発的に何かを考える事をしなくなった。 今の私たちを駄目にしてしまったのは教育。与えられる知識。 私たちは教育され、同じ知識を教えられ、それに何の疑いも持たずに、知識を得る事は素晴らしい事であり、生きていく上で知識は必要だ!という事を信じ込まされ、皆同じ知識を持つ様に教育されてきた。 この教育によって、私たちは自発的に考えるという事を奪われた。 私たちとは、生まれてこのかた全て