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生きる

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ー破壊そして再生へー
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2020年6月の記事一覧

食っても食っても腹にたまらない幸福感

私たちは、毎日幸福という奴を貪り食っている。この幸福を貪り食うために、毎日必死に働いている。 幸福感、それが欲しいから、私たちは毎日汗水たらして働く。そしてその働いた報酬としてお金をもらい、そのお金で幸福感というものを買って自分を満たしたつもりになっている。 どれだけ働いても、私たちは、この腹が一杯にならない。沢山働いて、多くのお金を手にして、そのお金を持って、幸福感ってやつを多量に食らう。でも、どれだけ、その幸福感というものを食べても、すぐに又その幸福感ってやつをこの腹

人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。 ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか? 人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなもの

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか

何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。 力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。 何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。 自分というものに、常に意識を向け

エネルギー消費を嫌がるエコ人間

自分の守るべき所は守って、他を尊重する生き方をと鈴木大拙は言う。 今の私たちは、自分の守るべき所だけを守って、他は尊重しない生き方、これをしている様に思う。 いつの時代もそうなのだが、私たち人間の考え方というものは、本当にバランスが悪い。私たちは中庸、そのものの真ん中で考えるという事がなかなか出来ない。いつも、右か左、どちらかに傾きすぎる所がある。 相手を尊重してと言えば、私たちは、その相手を尊重しすぎてしまい、逆に自分を主張しろ!と言えば、それを私たちは他に押し付けて

他の有限なる時間を食らうエナジーバンパイヤ

時間というものは、有限であって無限ではない。 この世界には、この有限である時間を無意識的に奪い続ける人たちがいる。 彼らには、自分が相手の有限な時間を奪い取っているという自覚がない。 彼らは、私にしっかりとくっつき、そして思いっきり、私が有している時間というものを吸い取っていく。彼らは、ある意味吸血鬼。 彼らは、私から貴重な時間を奪う。そして、それを自分を生かす為のエネルギーにしているそんな気がする。 人にくっついては、その人の時間を奪う。奪った方は、それで、エネル

操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。 私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。 この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。 私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているそ

我を制し、人生を勝ち取れ。

生きるってそんなに難しい事じゃない。 本当はもっと簡単なんだよな。 お腹が空いたら食べる。 眠くなったら寝る。 甘えたくなったら甘える。 辛くなったら泣く。 たったそれだけの事がいかに難しい事か。 我が入ると、この自然が突然難しくなる。 我とは、私たちをややこしいものにする。 人生とは、この我との長い戦いだ。 この我を制する事が出来れば、私たちはこの人生に完全に勝利する事が出来るのかも知れない。 我とは、大人になるにつれて強くなる。 だからこそ、子供に

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

私たちは至福そのものになる

絵を描くても、物を作るでも書くでも何でもいい。そう言った行為の中で人間の自我は解けていく。私たちは、行為する事の中で今ある私を溶かしていく。 何もかも忘れ、その行為の中に没頭し、そしてその行為の中に落ちていくとき、私たちは、今あるこの私を超える。この私というものがいかに醜く脆いものであったのかを知る。 私とは、生活の中で作られてきた私であり、その私とは、行為の中で溶けていく。何もかも忘れ、何かの行為に没頭する時、その時、私たちはこの私を超越する。そこにこそ、本当の、いや真

もうやめたんだ。

何にも面白くないし、楽しくない。むしろ苦痛。でも、私たちはその苦痛の中から抜け出ない。一生懸命作り笑いして、一生懸命何の興味もない話を永遠に聞いている。 何の為に、そこに行くのか?何の為にその人の話を聞くのか?一生懸命その人の話を聞いた所で、その人は自分のことなど何も聞いてはくれない。でも、その人がいつか自分の話を聞いてくれるんじゃないかといった幻想をその胸に抱えて、私たちはというか、私はいつまでも相手の話を聞いていた。 聞いていただけだった。私は気付いた。私のしている事

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の