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“人のものを大切にする”ことの大切さ

先日、工作をして遊んでいた小学4年生の女の子(Sさん)から定規を貸してほしいと言われて、貸した時のこと。

その日はその部屋だけでなく他の部屋の対応も流動的にしており、部屋を離れることも多々あったのだけど、ようやく戻ってこれた時に、私が作業をしていた机に、貸した定規と一緒にメモが置いてあるのに気がついた。


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「じょうぎかえします。ありがとうございます。」


なんというか、ひどく心を動かされた。
いや、人からものを借りた時の対応としては当然のことと言われればその通りなんだけど。

・貸してくれた相手にきちんと返す
・貸してくれた相手に直接返せない場合、メモでお礼の言葉を残す


という大人にとってはごく普通のやり取りを、小学4年生の女の子ができるということ。
今回そのことではっとさせられたのには、理由があることに気がついた。


私が勤務している児童館には放課後児童クラブ(学童クラブ)が併設されているのだけど、学童の子どもたちと毎日関わり日々の生活に慣れてしまうと、ものの貸し借りが雑になってしまうことも多々あって。

例えば子どもが宿題をやろうとした時に、筆箱がない、ということが多々ある(学校に一体何をしに行っているの…?と全力でツッコミたい気持ちは抑えつつ)のだけど、その場合に借りたものを、


・ありがとうも言わずに職員の机に置き、去っていく
・その場に置き散らかしたままいつの間にかいなくなる
・こちらに向かって投げ渡す(かなり酷い場合)
・そもそも借りる時に何も言わずに勝手に職員の引き出しを開ける



といったことがある。
(もちろん、きちんとお礼を言って返してくれる子もいるし、上記のような、“適切なものの貸し借り”ができない子も、わざとではなく単に返すのを忘れてしまっただけの場合などもある。)

これらは子どもへの指導(という言葉が上から目線であることは、今は棚に上げておきます)がきちんと行き届いていない結果であり、お恥ずかしいところなのだけど…。

このようなことがあった時は、“適切なものの貸し借り”の方法を伝えたり、子どもに「こうしてほしい」という思いを伝えたりしている。


でも今回のことで、人のものを借りるということはそういうことだったなと、はっとさせられた。


人権教育として、自分のものを大切にすると同時に相手のものを大切にする、というのがあると思う。


“適切なものの貸し借り”ができない子は、自分のものと相手のものとの境界線が曖昧なのではないかな、と思う。

特に、毎日学童クラブに通い生活を共にする中で、学童クラブ自体が第二の家のような居場所になっていると、その空間は自分たちのものであり、そこにある遊具や道具までも、当たり前のように使っていいという思い込みが発生しやすい。


Sさんは学童クラブ在籍児ではなく、一般利用で児童館に遊びに来ている子であり、そこまで密着した関係性でなかったのもあるとは思う。
また、「学童クラブのもの」「児童館のもの」という、大きな括りも子どもにとっては捉えにくいのかもしれない。これが「○○さんのもの」だったとしたら、結果は変わるかもしれない。


でも。
この話は、対職員や対施設に限った話ではない。
子ども同士でも、友達のものを勝手に触ったり、勝手に使ったりする場面もよく見かける。
その度に、人のものは許可なく勝手に触らないという話をしている。

「人のものは許可なく勝手に触らない」という話は性教育にも同じことが言える。表面的な部分にしか触れていないけれど、よければ下の記事も読んでいただければ。



自分と他人の境界線を平気で超えるようなことをしてしまう子どもと多く関わる中で、Sさんのメモは私にとって小さな衝撃だった。
Sさんに対しては、自分のものと相手のものの境界線がはっきりしている子なんだな、という印象を持った。
それを嬉しく思うのと同時に、子どもたちへの関わり方について改めて考えさせられた。



自他境界という言葉があるのは知っていたけれど、今回のことでふと思い出したので、勉強して掘り下げたいと思う。



忙しい毎日で、何気なくおこなっている子どもとの小さな関わりが、その後に大きく影響してしまうこともある。

たかが学童の鉛筆と消しごむ。
たかが児童館のサッカーボール。

一つひとつの関わりでいきなりすべてを変えることはできないけれど。
日々の関わりを丁寧にしていきたいなと、改めて思った出来事でした。




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