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霊泉寺温泉の旅館から

 霊泉寺温泉と言ってどのくらいの人がわかるものなんでしょうか。大変こじんまりとした温泉地で、上田市の丸子から松本市に向かう山間の道を途中で左に曲がって山に入っていくと突然現れます。

 霊泉寺温泉というからにはもちろん霊泉寺というお寺がありまして、そのお寺を入り口にして、川沿いに旅館が四件か五件くらいあるだけの大変小さな温泉地です。商店もありません。娯楽施設なんてもってのほかです。さっき歩いていたら飲み物の自動販売機が二つだけありました。

 その四件か五件くらいある旅館のなかの一つに私が気に入って何度か泊まっているところがあります。そこがまた大変素朴といいますか、昭和初期から時間が止まったような旅館なのです。

 外に娯楽施設は無いし、旅館も素朴ですから、ここに来ると温泉に入ってご飯を食べたあとにはもうやることがありません。本を読むか、そうでなければ早めに寝てしまって、早起きして周辺を散歩するくらいです。それがいいんですよね。

 そして特に私が愛好する旅館の昭和初期から時間が止まってしまったかのような空間というのも大事な要素なんです。何故かというと、この霊泉寺温泉は昭和初期に活躍した作家、矢田津世子にゆかりのある温泉なのです。

 矢田津世子といえば坂口安吾との恋愛が有名で、まあそれは坂口安吾が一方的に小説の中で書いていることでどこまで本当だったかわからないことでもあるんですが、「神楽坂」「茶粥の記」といった小説で知られています。「神楽坂」は第三回芥川賞の候補作にもなっています。太宰治がなんとしてでも芥川賞を取ろうとしていた時期ですね。

 そして先ほどあげたもう一作の「茶粥の記」です。この作品の中に霊泉寺温泉が登場します。

 素朴な屋造りだった。宿屋というよりは、掃除の行き届いた農家といった感じである。庭もなまじこしらえてないのがよかった。

矢田津世子「茶粥の記」

 朝食前、清子は姑に添うて散歩に出た。四五軒の湯宿と雑貨や駄菓子などを商う小店と、あとは川を挟んで飛びとびに農家があるばかりだった。山寄りの小高い寺の建物は、ここには似合わぬくらいの広壮さである。朽ちかけた山門、空洞(うつぼ)のある欅の大樹、苔むした永代常夜燈、その頂きの傘に付してあるシャチも捥ぎとられたり欠けたりしていた。文政六年の建立とあるが、老常夜燈の貫禄は、その全身の深苔にはっきり見られるようだった。「霊泉禅寺」と大きな額が本堂の正面にかかっていた。閉じこめたままで幾日も過ぎているらしい。雨戸の隙間から覗くと、洩れ陽の射した畳が赤ちゃけて冷たく光り、御本尊は須彌壇の奥深くて、拝めなかった。

矢田津世子「茶粥の記」

 このように描写されたままの姿を今も見ることができます。いや、「雑貨や駄菓子などを商う小店」というのは建物だけ残っているもののすでに廃業しているので、当時よりもさらに素朴な景色になっているほどです。

 そのような霊泉寺温泉の旅館に泊まる際には、私はいつも小澤書店より刊行された『矢田津世子全集』を持っていきます。分厚く重い本なのでかさばるのですが、四畳半の素朴な和室で「茶粥の記」を読んでいると、自分も昭和初期に居るような気分になれるのです。

 実はこの文章はその霊泉寺温泉の旅館で書いています。はじめは、矢田津世子が当時どれほど下品な風聞の種にされていたか、作品よりも容貌について語られ、作品は低く見られていたかということを書こうと思っていました。そのために当時の雑誌の記事や随筆などを国立国会図書館デジタルコレクションで調べ、印刷して持ってきてもいました。

 でも実際に旅館に着いて『矢田津世子全集』と印刷してきた記事を机に置いてお茶を淹れて飲み、まずは風聞とは関係ない矢田津世子の「新芽狂」という随筆を読んだところ、その随筆がとても良かったんですよね。

 矢田津世子は秋田の生まれなんですけれども、子供の頃から新芽の季節になるとそれを摘むのが大変好きで、今でも新芽を見るとおひたしにして食べたくなるという随筆で、その郷里の風景を思う無邪気さというか、純粋さというかがとても良くて、下世話な話を書くのが嫌になってしまいました。

 まあ当時の風聞についてはまた別に書くことがあるかもしれませんが、今は純粋に霊泉寺温泉と矢田津世子について書きたいなと思い、これを書きました。もうすぐ十七時です。十八時には夕食の膳が部屋に運ばれてくるので、その前に浴衣に着替えてお風呂に入ってこようと思います。食事のあとはもちろん、『矢田津世子全集』で「茶粥の記」や他の作品を読みつつ、眠たくなったら眠ります。贅沢な時間ですよね。

     追記

 「茶粥の記」は創作であり、主人公の名前も清子なので私小説でもないのですが、実際に矢田津世子は霊泉寺温泉を訪れています。

 小澤書店より刊行された『矢田津世子全集』の年譜によると、昭和十五年(1940年)に親交の深かった作家大谷藤子と「信州霊泉寺温泉などを旅行する」と書かれています。その時の経験を盛り込んだのか、執筆のための取材旅行だったのか、翌年昭和十六年(1941年)二月刊行の『改造』に「茶粥の記」を発表します。そして同年七月十六日から「甥武藤次郎、島村五郎とともに信州から直江津、秋田、青森を旅行する」とありますが、この時も霊泉寺温泉を訪れたようです。

 昭和五十三年(1978年)八月に刊行された『月刊地域保健』に掲載されている、評論家阿部幸男による近藤富枝『花蔭の人』の書評の中に次のようなエピソードが紹介されています。

 昭和一六年の八月、私は「茶粥の記」の舞台にもなった信州の霊泉寺温泉で、大学最後の夏を二年下の弟と共に過ごした。矢田津世子も七月末までは霊泉寺にいると知らされていたが、アルバイトの関係で七月中には行けなかったのである。

阿部幸男「書評 近藤富枝『花蔭の人』」
この昭和感

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