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禅と食で、生き方が変わる。

こんにちは。美月です。

コーチングを封印し、7か月のキャリアブレイクをしてからあっという間に1年以上が経ちました。

これまでの生き方を手放し、何者でもない期間を経て、新しい自分に生まれ変わりつつあります。

それはまるで死と再生のプロセスをたどってきたような感覚。

天気の良い日は最寄りの駅前のお気に入りのカフェで朝から作業をするのですが、今朝、カフェに行く道と帰り道で面白い体験をしました。

朝、カフェに向かうとき、私は駅から反対方向のカフェに向かうので、人の流れと逆行するんですね。みんな出勤するために、駅に向かっている時間帯にわたしは人をかき分けてカフェに向かいます。

人の流れと反対方向に向かっているので、道行く人の表情がよくわかります。うつむいてマフラーに顔をうずめたくなるところを顔を上げてその流れをよくよく観察してみると、ほとんどの人の表情が眉間に皺をよせ、姿勢は前のめりになり、スマホで何かを確認しながら足早に駅に向かっていく。
誰1人として、楽しそうに駅に向かう人はいませんでした。

「ああ、わたしも会社員時代は常に何かを考えて過ごしていたなあ」なんて思い返しながらカフェに行って作業をしました。

お昼過ぎ、作業もひと段落したのでお昼ご飯をつくるために自宅に帰ります。来た道と同じ道を帰る途中、今度は歩いている人の流れが朝と比較してゆっくりになっていることに気が付きました。
商店街で買い物をしている女性、今日おやすみでお出かけするのであろうカップル、寄り添って手を取り合いながら微笑んでいる老夫婦…。

「…同じ道なのに、雰囲気も人の感じも全然違う!」
建物や道自体は同じにも関わらず、まるで違う世界に来たようなそんな感覚になりました。

あわいを漂うわたし

その生き帰りで自分はどちらの世界の住人なんだろう?と思いましたが、
なんだかどちらもしっくりこない。

どちらの世界も知っている、その中間。どっちでもいいかなと思っている。
あわいにいるのかもしれないなあ、
なんて感じた面白い体験でした。

食べる瞑想「Zen Eating」

さて、先日友人ももえちゃんの初の書籍Zen Eating出版記念鼎談におじゃましてきました。
藤田一照さん、安田登さん、ももえちゃんの三者での鼎談。
一照さんも、安田さんも書籍を手に取ったり、イベントに参加させていただいたりと思想や考え方が好きな方々だったのでご縁を感じました~!

イベントチラシ、わくわく


まず、ももえちゃんの提供するZen Eating とはについて少しご説明しますね。

「食べる瞑想Zen Eatingとは、瞑想を土台にした心が調う食べ方です。」
「食べる瞑想Zen Eatingのすすめ」

詳しくは、ももえちゃんのHPやnoteをご覧いただきたい(末尾にリンク🐜)のですが、わたしが感じたZen Eatingとは、も補足的に綴っておきます。

「食を通じて五感をひらき、からだが持つ豊かな感覚を思い出し、さらに自分がいただく生命とのつながりを感じることで生かされているという安心感も抱くことができる時間」が食べる瞑想Zen Eatingです。
(ももえちゃん、書籍に沿って要約しましたが違ったら教えてください💦)

もうこれだけでも自然体セッションとの親和性がすごい…!と、ときめきました🥰

私は対話や動作でそれを体感する時間をつくっていますが、ももえちゃんは食という身近な営みでそれを実践しているのも、またいいなあと思います。

さて、今回は鼎談のレポートも兼ねてわたしが個人的に心に響いたポイントを記事にしてみます。

イベントへ行けなかった方、禅や瞑想に興味のある方はぜひ!🥰

食べ過ぎていると、「お前じゃないのが食ってるぞ」。

これは安田さんがおっしゃっていたんですが、安田さんのご家庭では食べ過ぎていると、家族に「お前じゃないのが食ってるぞ」と言われることがあったようです。

まさに、こういう時ありますよね。頭心身が一致しておらず「食べさせる存在」にのっとられて食べてしまっていること。

それは、自分なのか、自分ではないものか。
これを探究していくと哲学的になってしまうので(笑)、留めますが餓鬼のような存在にある種のっとられて食べているんじゃないか、と鼎談では展開していました。

おなかはもう十分に満足しているのに、受動的に「そこにあるから食べてしまう」ような現象。食べたいわけじゃないのに、なんだか手がとまらない。こういう時には「わたしじゃないものによって食べさせられている」のかもしれない、という面白い視点でした。

あるある!なんだか自分がいつもの自分じゃないように狂ったようにポテチやチョコレートを食べてしまったこと、一度くらい経験ありますよね。

「少ないからこそいい」を大切にしたい

ももえちゃんの書籍でも、こんな風に定義されています。

「食欲には三種類あります。心由来の食欲、頭由来の食欲、おなか由来の食欲です。
一つ目の、心由来の食欲は、ストレスやネガティブな感情が湧いた時や手持無沙汰なときに、なにか食べたくなってしまうような食欲です。
二つ目の、頭由来の食欲は、何を食べると健康や美容に良いか、という情報や知識に基づいています。
三つ目は、おなかが空っぽのときのおなか由来の食欲です。」
「食べる瞑想 Zen Eating のすすめ」

わたしも以前「人の悩みの構造理解ワークショップ」にて、人には頭、心、からだ、たましい4つの領域があって、相談者がどこの意識状態で悩んでいるかを見立てるのが大事という話をしました。

まさにそのお話とリンクします。
わたしたちは、自分自身によって食べているのではなく、自分自身を超えた「情報」や「~すべき」と言ってくる内在化した存在によって食べさせられているのかもしれません。

「国産だったら安全だろう」と「外国産のこれはダメだ」などとわたしの祖母がよく言ってますが、それはまさに頭由来。
こういった場合は、食べ物そのものではなく、情報を食べていると書籍では語られています。

ここで少し食と脱線しますが、この現象っていろんなところで起きてきているように感じます。

例えば、仕事やキャリアを考えるとき。
クライアントさんでも「自分に向いている仕事がわからない」「自分のやりたいことがわからない」と悩む人が多いですが、それも「わたし」が選択しているのではなく、ネットや世間の情報によって選択させられているのかもしれません。

Zen Eatingを通じて、あらためて、「誰が、どのようにそれを選択しているのか」という問いの重要性を感じました。

~だから愉快、ではなく、ただ、愉快

鼎談の様子

これはわたしが会社員を辞めたり、キャリアブレイクをとってきた期間で価値観をアップデートしてきた在り方でもあります。

子どもの頃は、理由がなくてもやっていたことが、大人になると無駄なことになり、正当な理由なくしてやってはいけないことに変わります。

例えば、ただひたすらに寝ること。

数年前に「わたし、休み方がわからないんですよね。」
と相談に来た方がいました。

その方は、休みでもだらだらと過ごしちゃ時間を浪費している感じがする。「わたしは何もしていない。」という感情を感じるのが嫌だから、何かしてしまう。体調不良とか、正当な理由がない限り休むことに罪悪感がある、と言った悩みを抱えていました。

実はこれは過去のわたしです。
ほんの数年前は、成長や成果のためには時間を有効活用しなければならない、と必死になりこのような悩みがありました。

でも、我が家の愛犬を観るとそんなことおかまいなしに寝たいから寝て、遊びたいから遊んでいます。

もともとは、シンプルだったはずですよね。
何かの活動をするのに理由なんていらない。誰もが小さな頃は、欲求=行動の方程式で成り立っていたはずなんです。それがなぜか社会に出ると「生産的で、有意義であらねばならない」などの信念によって、欲求×正当な理由=行動という式になってしまう。

鼎談で一照さんが「~だから愉快、でなくてもいい。愉快だから愉快でいいんだ。汚いから掃除するんじゃなくて、掃除が貴いからするんだ。それだけ。」っておっしゃっていたことが印象的でした。

やればやるほど、遠くなっていく。

このお話が鼎談の中で個人的にはいちばん響きました。
ももえちゃんは、今でこそ、ゆっくり味わう、食べるものよりも、どのように食べるかでおいしさが変わる、という考え方を提案していますが、ももえちゃんも昔は自分にも他人にも厳しく食事制限をしていたといいます。

表紙がかわいくて眺めちゃう
「母親がリュウマチで寝たきりだったのが、食事で元気になったという経験から、私も健康には食事が大事なんだ!と健康オタクになっていました。でもはじめはしあわせのために学んだ健康知識がいつしか食べるものや食習慣などにこれは良い、悪いとレッテルを張り、自分にも周囲にも厳しくなっていきました。」
ももえちゃん

うわあ!!!わかりみが深い。深すぎます。
わたしもしあわせのために勉強しはじめた心理学や自己理解オタクがいつの間にかガチガチの「こうあるべき!」になって、自分にも他者にもジャッジメンタルになった時期があります。
(例えば、他責ではなく自責で考える、すべては相手に投影しているんだといった思考法が自分をがんじがらめにして他者を頼れなくなったり弱みをさらけだせなかったり…💦)

だからこそ、一度デトックスしようと思いコーチングを手放したり、自己啓発本や科学系専門書を読むことをやめました。

このように、こだわる→他者に勧める(ジャッジメンタルになる)→一度すべて手放す→統合するという段階を経て今わたしが感じる大切な学びがあります。

それは、「夢中」と「執着」は違うということ。
自分がオタクとして「夢中」で語っているときは、周囲はそのエネルギーに引き寄せられ面白がってくれる。
でもそれが一歩「執着」に変わると、自分や他者に対しても「こうでなければ」「こうすべきでしょ」と善悪、二元論的な姿勢に変化してしまう。その瞬間は良かれと思ってやっているんだけど、周囲からしたらいい迷惑ですよね(苦笑)柔軟性のない自分も苦しいし。
過去の自分がお恥ずかしい限りですが…。それもあっていまのわたしがあります。

言葉で言うほど簡単じゃないですが、「夢中になりつつ、醒めている」という柔軟な姿勢が今は大事なんだなと思うんですよね。自分は良いと思っていても、それを他者に押し付けたりしないし、自分も責めない。

自分がこだわりを持っていても、より良くなる指摘を受けたら柔軟に受け入れて己を変えていく姿勢、それがものすごーーーーく大事なんだということをこだわりをもってやりきってみたからこそ、今となっては思います。

流れに乗りながらも、俯瞰する姿勢

とにかく読んでほしい、体験してほしいZen Eating

なんだか自分の話も織り交ぜて綴ってしまいましたが、とにかくももえちゃんの処女作、「Zen Eating」は世界の見方が変わる書籍であり、体験なので推し!!のZen Eatingを体験してみてください。
(友人だから、など関係なくめちゃくちゃ良著です!!)


Zen Eatingを体験してみたい方はこちらも👋


素敵な本を生み出してくれたももえちゃんに感謝を込めて。
ありがとうございます!!!


ももえちゃんのお着物うつくしや〜


それでは今日はこの辺で~👐
読んでいただきありがとうございました♪

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