「東京恋物語」第十話:恋は無敵!
七月に入ると、テレビのワイドショーではエムケーフォースの脱税疑惑が実名で報道されるという状況にまでなっていた。そして、東西証券の河波が言っていたとおり、国税局による査察も近いのではないかと、番組の中で発言する経済評論家やコメンテーターもいる。そんな状況下、エムケーフォース代表取締役である宮野は、ホストである橘新之助と橘を指名する常連客の真由子を引き連れて、夜の新宿歌舞伎町を歩いていた。
「宮野さん、今日はいつもと違って珍しく酔ってない?」
真由子が心配そうに、ふらつきながら歩く宮野の後ろで声をかけた。
「ああ、大丈夫。たまには、こんなこともあるさ」
宮野はそう言うと、片手を上げて、後ろの真由子に合図した。
この日、宮野は意図的にホストである橘に働きかけ、夕方の六時半から新宿三丁目で真由子との同伴をしていたのだった。
きっかけは、今日の昼間に宮野が橘にかけた電話だった。
「橘、エンジェルアプリのパパ活支援システムは、あのユウも知っているのか?」
以前に橘からメール添付で送られてきた複数の画像をパソコンで見ながら、宮野が聞いた。それらの画像は、ホストクラブのゼウスで、ユウが奈々子を接客している画像であるが、その中には、芸能週刊誌が奈々子のホスト通い疑惑として報じた際の写真もあった。当初、橘と真由子は、奈々子に似た女性がゼウスに来ていることから、ユウとふたりでいるテーブルを何気なく隠し撮りしていたのだった。その後、奈々子に似た女性が頻繁にゼウスに来ていることを聞いた橘は、それらの画像を宮野へ送信するように真由子へ依頼した。そして宮野は、画像に映る女性が奈々子であると一瞬で確信したことから、それら一連の画像を息のかかった週刊誌記者に送っていたのである。
また、脱税疑惑や官僚への接待で、騒がしくなり始めたマスコミ報道に対して異常なまでに過敏となっていた宮野は、唯一懸念していたことがある。それは、エスプリグループからの内部告発であった。もともと宮野は、エンジェルアプリと、パパ活に関する情報漏えいを防ぐために、関係するホストに対しては、その都度、秘密保持の誓約書へサインをさせていたが、匿名の内部告発ともなれば、誓約書は逆にマイナス要素へと変わってしまう。
「ええ、ユウはパパ活の詳細を知っていますよ。確か、以前に真由子の枝でアポロンに来たアキをユウに紹介した時、アキ本人から申し込みがあって、ユウがパパ活の手続きをしたはずですよ」
「そうか。それで・・・、ユウは今日も店に出るのか?」
「あの・・・、実は、今日がユウのラストなんですよ」
そう言う橘の返事を聞いた途端、宮野は黙って宙を見上げながら、執務用チェアの背にもたれかかった。そして宮野は、以前にメトロキャブを訪問した際に偶然見かけた、若いイケメン男性と奈々子の姿を思い出していた。その訪問を終えた直後、白いベンツの車内でドライバーである坂本から聞いた話しによると、若いイケメン男性は、坂本が何度もカーチェイスをしたタクシードライバーであるとのことだった。それを思い出した瞬間に、宮野はハッとした表情をした。「もしかして、あのタクシードライバーがユウなのか?」、宮野は再度パソコンに向き直り、いくつかの画像を見ながらつぶやくように言うと、突然何か閃いたように橘へ話しはじめた。
「橘、ちょっと頼みがあるんだが・・・、今晩、誰かお前の担当している女の子を誘って、アポロン出勤前に同伴してくれないか?できれば真由子がいいんだが・・・、支払いはすべて、私がする」
宮野はそう言うと、自分もその同伴メンバーに入った上で、客としてアポロンへ行きたいと話した。
「えっ、ええ。いいですよ。じゃ、真由子に頼んでみます」
「ああ、急ですまないが、よろしく」
そして、その数時間後には、橘が真由子と同伴をすることが決まり、宮野がそこへ合流すると、三人は、揃って新宿三丁目の寿司店で食事をしていたのである。その後、三人は夜の街を歩きながら、歌舞伎町のアポロンへと向かっていた。
「ちょっと、もう少しゆっくり歩いてくんない?」
宮野と真由子の後を、追うように歩く橘がそう言った。その両手には、先ほど食事をした寿司店に作らせた土産用の折箱が入った紙袋があり、それは持ち切れないほどの量であった。
アポロンのドアを開けた宮野は、両手が折箱袋で塞がった橘を先に中へ入れると、店内からは、ホストたちが一斉に「いらっしゃいませ!」と叫ぶ声が響き渡った。
内勤の男性が、真由子のハンドバッグを預かると、そのままボックス席へと、三人を案内した。
「こちらへどうぞ。お飲み物は、姫様のボトルキープでよろしいでしょうか?」
内勤の問いかけに真由子は頷いたが、その直後に、宮野はテキーラのボトルキープを新規で入れるように頼んだ。
「承知しました。少々お待ち下さい」
内勤はそう言うと、待機していたホスト数人に、ヘルプに入るよう手で指示した。
源氏名をユウとしていた祐太郎は、以前から担当をしている女の子数人に対し、それぞれに座っているボックス席をまわりながら、その都度、ラストを祝うシャンパンコールをもらっていた。
「ありがとう。宇宙イチ最高に嬉しいよ!」
そんなキザなセリフを使って祐太郎は、隣に座った女の子にシャンパンのお礼を言うと、広いホールの向かい側で、多くのヘルプに囲まれながら騒がしく盛り上がっているボックス席を見つめた。
「あれは・・、宮野・・・」
「どうかしたの?」
隣に座る女の子が、声をかけた。
「いや、何でもない。ちょっと知った顔だったから」
祐太郎がそう言ったところで、健太がヘルプとして、テーブルの向かい側に座った。つい先日、総代表の美月が、ゼウスから健太をアポロンに移籍させていたのだった。
「姫様、はじめまして、健太です。よろしくお願いします」
「健太にヘルプしてもらうけど、いい?」
祐太郎は、自分がホストを始めた時、店のしきたりを、いろいろと教えてくれたのが健太であると、女の子に説明した。
「そうだったの。いいわよ、飲んで」
「あっ、ごめん。健太は未成年なんだ。いつもウーロン茶の水割りを飲んでるんだけど、いいかな?」
祐太郎は、健太に代わってそう言った。
「えっ、ウーロン茶で?水割り?そんなの初めて聞いたけど、頼んでいいわよ」
女の子の言葉に、健太は「アーリヤス」と叫ぶようにお礼を言って、内勤を呼ぶと、ウーロン茶をオーダーしたのだった。
「健太はね、ヒーリングボーイなんだよ」
祐太郎はゼウスに勤務していた時、自分が担当する女の子が枝として友人を連れて来た際には、必ず健太をヘルプに就かせていた。それは、ゼウス内部の情報を細部にわたり教えてくれたお礼の意味もあってのことだが、その時に、枝である女の子が異口同音に語った言葉が、『ヒーリングボーイ』であった。
「そうね、なんだか居てくれると、癒される感じがする」
女の子の言葉に、健太はにっこりと笑った。
「でも、ユウさんがいなくなったら、淋しいっす。晩ごはんも、おごってもらえなくなるし・・・」
「そっちかよ」
祐太郎が冗談っぽく言ったところで、内勤が、祐太郎に席を外すように手で指示した。
それを見た祐太郎は、自分のグラスにコースターをかぶせて席を立つと、内勤のほうへ近づいて、呼ばれた理由を聞いた。
「すまないが、橘の卓にヘルプで入ってくれ。どうやら、橘と一緒に来られてる宮野さんがユウと話しをしたいらしい」
「了解です」
祐太郎はそう言うと同時に、心の中で「やはり宮野だったか・・・」とつぶやきながら、何か嫌な予感を感じていた。
「おう、主役が来たぞ。今日がラストのユウく~ん!」
ソファー席に座る橘が、向かい側の丸椅子に腰を掛けた祐太郎に向けて言った。テーブルの上には、先ほど持ち込まれた寿司の折箱が数多く置かれている。
「ユウ。確か、宮野さんは初めてだよな。はやく挨拶して!」
橘の言葉に促されて、祐太郎は軽く会釈をして宮野を見た。
「いや、初めてじゃない。以前にメトロキャブで会ったよな。そしてユウの隣には、婚約者の新藤奈々子がいた・・・」
「オオォ~」
宮野の話しを聞いて、傍にいたヘルプのホストたちが、一斉に驚きの声を上げたが、ソファー席に座る宮野と橘、そして真由子の三人は、ただ微笑みながら、彼らの驚いた様子を楽しむかのように見つめている。
「ユウ。お前、メトロキャブで何してたんだ?しかも婚約者が新藤奈々子だって・・・。もしかすると、ホストになる前はタクシードライバーだったのか?」
ヘルプのホストたちは、ユウの反応を黙って注目していたが、橘の問いに祐太郎は、ただ頷くだけであった。
「じゃあ、新藤奈々子が結婚する相手って、ユウなのね?」
真由子のわざとらしく念押しをするような問いに、祐太郎が黙って頷くと、ヘルプのホストたちは、再び驚きの声を上げた。
「中卒か、高卒か知らないが、出世欲に駆られて、たかがタクシードライバーの男が、彼女を自慢するために会社の社長にお披露目したのか?それとも、エンジェルアプリの秘密を社長に密告して、オレのビジネスを妨害したかったのか・・・、どっちかだろう?いや、どっちも図星か?さぁ、どうなんだ!」
身を乗り出して、問い詰めるように聞く宮野の眼を、祐太郎は、ただじっと無言で見つめていた。すると、隣にいた橘が突然、「じゃ、まずは駆けつけ三杯だな」と言い出した。そして、ヘルプとして正面に座るホストに、新しいショットグラスを持ってくるよう指示をした。
「まあ、話しづらいことも、いい気分になれば、話せるよな」
橘はそういいながら、テキーラのボトルを傾けて、ショットグラスへと注いでいる。
「まずは一杯。さあ、一気!」
橘の声につられるように、周囲の声は、一気コールへと変わっていった。
祐太郎は、何も言わず、ショットグラスを手に取ると、一気にそれを飲み干した。
「ホストを辞めたら、女優のヒモになるのかな~、うらやましいっ!」
そう言いながら、橘は二杯目のテキーラを注ぐと、祐太郎はすぐさま、何も言わずにそれを飲み干すのだった。
「それとも、会社の幹部になるっていう、出世欲がムクムクと目覚めたのかなぁ~」
橘は、さらにそう言って、三杯目のテキーラをショットグラスに注いだが、祐太郎はその言葉に反応することなく、黙ったままで、一気に飲み干したのだった。
「じゃ、次はオレから、今日のラストをお祝いする追加の三杯だ」
宮野は、テキーラのボトルを手にすると、そう言いながら、テーブルに空のショットグラスを三つ並べて注ぎはじめた。
祐太郎は、今回も、ただ黙ったままでテキーラを飲み干すだけであった。そして、三杯目を飲み干したところで、宮野は、シャンパンクーラーに入っているボトルを掴むと、祐太郎の前に差し出した。
「たかがタクシードライバーの分際で、余計なことしやがって!そのおかげで、こっちは重要なビジネスがご破算になっちまったんだよ!」
鋭い目つきでそう言い放った宮野は、まだ半分ほど残っているシャンパンボトルを、ラッパ飲みで一気に空けるように祐太郎へ要求した。
周囲からは、一気飲みのかけ声が、再び湧き起こっている。
すでに、ショットグラスで合計六杯のテキーラを飲み干して、目が虚ろになりはじめている祐太郎であったが、それでも言われるままに、シャンパンボトルを手にして飲もうとした途端、誰かがそのボトルを横から奪い取った。
「健太・・・」
祐太郎は、隣でシャンパンボトルを手にして今まさに飲もうとしている健太を見てそれを制止したが、それと同時に橘が声を荒げながら立ち上がった。
「お前、まだ未成年だろ?なに邪魔してんだよ!」
橘が、健太の胸倉を掴んで、睨みつけながら言うと、その横から祐太郎がシャンパンボトルを健太から取り返した。
「何を騒いでるんだ?お客様のいる店の中だぞ」
美月総代表の声である。
「だって、健太が急に場の雰囲気を乱したんで・・・」
そんな橘の声には耳を貸さず、美月は宮野のほうを見つめている。
「浩介、さっきから見ていたが、ユウに不満をぶつけるのは止めたほうがいい」
美月は、宮野にそう言うと、ユウがヘルプに就いた時点で、インカムを持っているヘルプホストに依頼し、会話の一部始終をマイクで拾わせていたのだと説明した。
「でも総代表、どこの馬の骨とも分からんヤツに、ビジネスの邪魔をされると、誰だって腹が立つでしょう?」
「ユウはな、お前がビジネスの邪魔をされたという相手方、メトロキャブの御曹司だよ。いずれメトロキャブの三代目社長になる人物だ」
美月の言葉に、宮野は目を丸くして驚いた表情をすると、その顔からは、言い得ないほどの悔しさが滲み出ていた。
「しかも、ユウは中卒や高卒じゃない。西早稲田にある都内でも最難関の大学を卒業したエリートなんだよ。そんなヤツが、社会の最底辺ともいえるホスト業界で、これまでイヤな顔一つ見せずに、仕事をしてきた。健太も、そんなユウの姿を見て、心から慕っていたんだろうよ。だからこそ、あんな真似を・・・」
美月は、そう言いながら健太を見て、この場を離れるように手で合図した。
「浩介、今日はもう帰ったほうがい。ここの支払いは不要だ。こちらの都合で、せっかくの雰囲気を壊したからな」
「総代表、最後にひとつだけ聞いてもいいですか?」
宮野が、冷静な口調でそう言うと、美月は黙って頷いた。
「エンジェルアプリの仕掛けを探ろうと、ひそかに情報収集していたユウに対して、総代表はどうしてそんなに寛容なのか・・・、私には理解できない」
「幼子のように純粋な童心で、自分が信じる正義を貫き、愛と情を持って人と接する。昔からオレがいつも言っている、この三カ条を思い出せ、浩介」総代表の美月はそう言って、カウンター内に掲げてある三カ条を指さした。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。つまりなぁ、無意味な争いを避けようと、ユウはただ情報収集をしていただけなんだ。新藤さんのためにね。この意味を、浩介・・・、今のお前に理解できるかな?」
美月の言葉をただ黙って聞いていた宮野は、おもむろに上着から財布を取り出すと、その中から数十枚の一万円札を引き抜いてテーブルに置いた。
「お前たちは、このまま居てくれ。オレだけ先に失礼する」
宮野は、橘と真由子にそう告げると、ソファー席から立ち上がった。出口ドアへと歩く宮野の隣には、美月が並んで歩いている。
「浩介、これからお前が復活するためのシナリオを、坂本へ伝えてある。一度、よく考えてみてくれ」
宮野は、美月の話しに一瞬立ち止まって聞き耳を立てたが、その顔はまっすぐ先を見つめたままで、アポロンを後にしたのだった。
店のドアを開けた状態で、宮野が去ってゆく後ろ姿を見つめていた美月の背後には、まるで何もなかったように賑やかさを取り戻した店内で、ふたたび多くの笑い声が響き渡っていた。
七月も半ばに差しかかり、日本各地からは梅雨明けのニュースが聞こえ始めていた。
乃木坂にあるエムケーフォース本社では、臨時の取締役会が開かれ、その会議室にはボードメンバー数人の他に、壁側の傍聴席に座る東西証券の河波と、すでに子会社化したエスケークリエイトで代表取締役に就任している坂本の姿があった。
「では、本日の臨時取締役会で、メインとなる議題の採決に入りたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」
司会者の声に、宮野を除く、ボードメンバー全員が手を上げた。
「それでは、子会社であるエスケークリエイト株式会社のMBO、マネージメントバイアウトを承認することで決定いたしました」
司会者がそう言うと、傍聴していた坂本が、東西証券の河波と目を合わせて微笑んだ。そんな坂本は、二週間ほど前に受け取った、エスプリグループの総代表である美月からのメールを思い出していた。そこには、この日を迎えるまでのアジェンダが記載されていたのだった。その詳細は次のような、三段階となるフェーズであった。
まず第一のフェーズは、坂本が東西証券の河波に対して、宮野が行ってきた官僚に対する接待のすべてを隠すことなく開示し、今後のリカバリー対策を考えることである。そして、そのリカバリー対策で大きな柱となるのが、エスプリグループ総代表である美月が保有する個人資産を坂本に貸与する形で実施するMBO、マネージメントバイアウトだった。
河波には、これまで主幹事として進めてきたIPO(新規株式公開)を、今更キャンセルすることは会社としても避けたいとの思惑があった。そして幸いにも、今のところ脱税に関する決定的な証拠が見つかっていないせいか、国税局の査察は未だ実施される気配はない。そこで河波は結果的に荒療治、または禁じ手ともいえるMBOの実行を後押しすると約束したのである。
そして第二のフェーズとしては、坂本自身が奈々子の立会いのもと、ジャーナリストである瀬戸と面談し、宮野が子供のオモチャとして自由に使っていた錬金術ともいえるエンジェルアプリ事業の詳細を開示し、今後はMBOによってそれを使えなくすることを説明することである。その結果、瀬戸がこれまでに取材で集めた多くの不祥事ネタは事実上過去の遺物となり、宮野への怨恨でもない限り、それらのネタは無意味となることを認めざるをえない。そこで重要なことは、瀬戸に対する救済策として、奈々子が取材ネタのすべてを買収する代わりに、今後はマスコミに対する不祥事ネタの提供を取りやめるよう交渉することであった。実際のところ、瀬戸は当初、この交渉に難色を示していたが、奈々子が提示する金額が想定外に高額であったためか、表向きは渋りながらも最後はすんなりと了承したのだった。
そして仕上げの第三フェーズは、エムケーフォース本社ボードメンバーに対するMBOの根回しである。今のところ、ボードメンバー全員が、宮野によるエンジェルアプリ事業の存在を知らない。そこで、マスコミによる不祥事報道から国税の査察可能性へと発展したこと自体が、事実無根の空想話しに過ぎないことを坂本から説明することである。つまり、赤坂オフィスが単なるコストセンターから利益を生み出すプロフィットセンターへの変貌を遂げれば、収支をガラス張りで明らかにする責任も生じることから、あらぬ詮索をすべて排除することができるということである。子会社という関係でなく、MBOによって本社とは全く資本関係のない会社にすることで、より疑惑から解放され、さらには、本社が赤坂オフィスの入居する自社ビルを貸与する形をとれば、その賃料を定期的に得ることができること、そして、撮影機材やデザインソフト、そして既存作品の著作権や社員の持つ技術、ノウハウなどの見えない価値が、デューデリによって数値化されれば、のれん代としてプラスの利益が生まれ、本社に収入計上されることを訴求したのである。
それらは、今の新規受注激減で赤字を余儀なくされた経営陣にとって、想定外の福音となることから、坂本の説得は意外にもスムーズに進んだのだった。ただし、エンジェルアプリの価値については、宮野以外のボードメンバーたちが誰一人としてその存在を知らないことから、デユーデリの対象となっていない事はもちろんである。
「では、エスケークリエイト株式会社の売却にかかる契約書に、宮野社長、そして坂本社長、両名による署名、捺印をお願い致します」
司会者の言葉に促されて、ふたりは会議室の正面に座ると、それぞれが署名と捺印を済ませた。それと同時に、会議室にいたボードメンバーと東西証券の河波による拍手の音が会場に響き渡ったのだが、正面に並んで座る宮野と坂本は、無表情のまま握手を交わすことはなかった。
時を同じくして、西新宿にある高級ホテルのロビーカフェでは、美月と祐太郎、そして奈々子の三人が、坂本からの連絡を待ちながら、和やかに談笑をしていた。
「それにしても、ユウが言い出した、MBOのアイデアは驚きだったね~」
美月がそう言うと、祐太郎は、メトロキャブの創業者である祖父について話しはじめた。かつて、会社の事業規模拡大に伴い、社員から組合組織をつくる要求が出た際に、当時、組合組織の創設に弱腰だった祖父に対して、社員達がMBOを提案してきたことがあったのだと話した。その結果、祖父はMBOを回避するために組合組織の創設を認めたのである。
「そうだったのか。まあ・・・、今回は、敵対的でなく円満なMBOだがね。しかも、投資するだけの価値は十分にある。つまり、数年で投資額は回収できるし、これからも、ホストたちにとって、安定した収入源にもなる」
美月がそう言ったところで、テーブルに置いていた携帯電話の着信音が鳴った。
「もしもし」
そして美月は、電話の相手である坂本が話す内容に頷きながら、その口元には会心の笑みが浮かんでいた。その笑みは、今回のMBO作戦が成功したという意味である。もともと、この作戦には、坂本の協力が欠かせないキーポイントとなっていた。そこには、坂本をトカゲのシッポ切りに利用させたくないという祐太郎と奈々子の強い思いがあり、今回そんなふたりの願いが、美月のハートを動かした理由のひとつといっても過言ではない。
「そうか、それはよかった。では、今後の事業再編スケジュールは、決まり次第でいいから連絡してくれ。よろしく」
美月はそう言うと、今後のエンジェルアプリ事業は、女性向けAVコンテンツだけでなく、公募で採用するシナリオや小説を元にした真面目なショートドラマを考えており、そこにホストや女性の常連客をキャスティングして製作する予定であることを説明した。ただ、パパ活支援システムについては、パパとなるスポンサーを美月総代表自身が厳選した上で登録するという機能を追加し、健全な運営をすることによって今後も継続すると話した。そして、美月には、これから別件の約束があるらしく、「今のところ全て予定通りだな」と、満足そうな表情でテーブルの会計票を手にソファーから立ち上がり、ロビーカフェを後にしようとしたが、突然振り向き、ふたりに言った。「恋って、人を無敵にするのかもしれないな。つまり、恋は人を強くする一方で、すべてを赦す寛容さを与えるということだ。今回、ユウは宮野を糾弾することもできたが、結果としてヤツをMBOで救済したんだからな」そう言って背を向け去ってゆく美月の姿を、ソファーに座る祐太郎と奈々子は、ふたり寄り添いながら見つめた。
『恋は無敵ってことか・・・。確かに、宮野社長のことは、真に悪人とは思えなかった。それは彼の生い立ちを知っていたからなのか、それとも奈々ちゃんに恋してたからなのか・・・。たぶん、美月さんの言う通りだろうな』美月の後ろ姿を見ながら祐太郎は心の中でつぶやいた。
「美月さんらしいキザな去り方だなぁ~。あっ、そうだ。美月さんが投資した分のリターンって、今後十分に見込めるけど、奈々ちゃんの持ち出し分は結局のところ出しっぱなしになってしまって・・・、ゴメン。謝るよ」
祐太郎は、奈々子がジャーナリストの瀬戸に支払った高額な情報買取り料について、自分がそのアイデアを奈々子に提案したことで、結果的に奈々子に損をさせたことについて詫びた。
「まあ確かに、リターンはないわね。でも、あのままマスコミが騒げば、犠牲になった翔子ちゃんのことも、場合によっては世間に露呈されるし、そうでないにしても、翔子ちゃんの精神的なダメージが、報道を見聞きすることで再燃するかもしれないからね。むしろ、提案してくれた祐くんには感謝してるわ」
「なるほどね。それも、恋する人は敵をつくらないってことかな?」
祐太郎は、微笑みながら頷いた。
「まあそれより、祐くんにとって今回の経験・・・、意外と面白かったんじゃない?」
奈々子が、少し意地悪そうな目をして言った。
「そうだな~、そもそも、奈々ちゃんと出会ったことが、悪夢のはじまりだったような気がして・・・」
「コイツゥ~」
祐太郎の頬を、奈々子がつねりながら言った。
「イテテッ」
そう言って、祐太郎が顔をしかめているのを見ながら、奈々子がつぶやいた。
「これから、私たち・・・、どうしよっか?」
「ドライブでもする?車はホテルの駐車場に置いてあるし・・・」
祐太郎の言葉に、奈々子は呆れた顔をした。
「そうじゃなくって・・・、私たちの将来のことよ」
「奈々ちゃんの計画に従うよ。出会ってからずっと、そうだったからね」
「コイツゥ~」
そして再び、奈々子は祐太郎の頬をつねった。
「イテテッ。だって、奈々ちゃんは、これから女優をやめて専業主婦をする気なんて、まったく無さそうだもんね~」
「それって、皮肉たっぷりのプロポーズ?」
「まあ、捉え方によっては・・・、そうとも言えるかな」
「ありがと~。嬉しい!」
奈々子は、そう言って、周りの眼を気にすることなく、隣に座る祐太郎に抱きついた。
「でもね、女優と主婦、両方したいの・・・、許してくれる?」
「奈々ちゃんの、お気に召すまま・・・」
祐太郎はそう言いながら、胸元に抱きついたままでいる奈々子を見つめながらも、そっと目を閉じた奈々子の鼻に、軽くキスをした。
「なんで鼻なの~、もう」
「じゃ、この続きは、ドライブしながら・・・」
祐太郎はそう言って、奈々子の手を取ると、ふたりはゆっくりと立ち上がり、高級ホテルのロビーカフェを後にした。
ふたりが立ち去った後、テーブルの花瓶に咲いたピンク色の撫子が、ロビーから吹き抜けてきた風を受け、嬉しそうに花びらを揺らしている。
撫子の花言葉、それは純愛。
そして、七月に咲く撫子は、ふたりの姿が見えなくなるまで、その花びらを揺らし続けていたのだった。
完
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