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函館帰省ついでにひっさびさに生家へ

函館への帰省のついでに生家のまわりをブラリ。高校一年時に引っ越すまでは、海沿いに建つココの二階に住んでました。今の家はちょっと離れたところなのであんまり来ることはなく、ひっさびさに。

色褪せたファーストガンダムのようなカラーリングの生家。んまぁ場所モロバレですが、、、まぁ良いか、金森赤レンガ倉庫の割とそば。歴史的なモノだと北海道第一歩の地の碑、新島襄の海外渡航の碑があったりします。しぶい。


ビックリするくらい海沿いに建っていて、、、いや、海沿いっていうか半分ほど海に突き出てるんですが、見ての通りの支柱なので、1993年の北海道南西沖地震の際には物凄く揺れて揺れて。。。体感的に震度6くらいあったような印象でした。

波の向こう側、ちょろっと緑があったりヨットがとまっているのは「緑の島」と呼ばれる、埋め立てで作られた人工島。毎年8月1日に行われる花火大会はそこで打ち上げなので、昔々の我が家は入れ代わり立ち代わりで50人くらいは集まる特等席でした。

母親の実家が酒屋であり何でも屋さんだったので、ビールも缶や瓶だけじゃなく、10~15リットルの生ビール樽をいくつか用意。が、あっという間にスッカラカンになる勢いでした。

小学校に上がるかどうかって頃かなぁ、もっと前かなぁ、って頃だったので、お酒の入ったグラスはちょっとムリでも、乾きモノや枝豆を運ぶくらいのお手伝いはしていました。

花火イメージ

んで、その頃にヒロコ・グレースさんというタレントさんが何故かウチに来て花火を観て行ったそうな。親御さんかマネージャさんと一緒にだったらしいが全然記憶にない。

CM制作のプロデューサだった叔父のつながりでもなく、誰の何繋がりでいらっしゃったのかまったくの不明。急にフラッと入って来たのだろうか???

フィルムが無かったかカメラが壊れていたかで写真はたぶん撮ってなくて、親から後々「そんなことあったんだよ」って話を聞いて「へぇぇ」って感じでしたが、人生で初めてタレントさんに会ったのはこの生家でした。


そのつながり、、、かどうかは分かりませんが、ついでに思い出話を書くと、函館って映画やCMのロケが結構多くて、で、通っていた高校が坂の上の観光地ど真ん中だったので、よくロケ隊と遭遇するんです。


んで、次に(実質初めて)タレントさんを生で観たのは、坂の途中にあるこの「カフェテラス元町」、、、見上げた記憶があるので多分ここだと思うんですけど、、、記憶違いかもしれない笑。

高2の時だったかなぁ、、、同級生から「あそこでドラマか映画の撮影してるってよ!」って情報が流れて来て、文化祭か体育祭の最中だったんだけど、そこは高校から徒歩3分の距離、我慢できずに友達数人と観に来てしまったミーハーなクソガキ(笑)。。。

たしか、午前中はサボって友達の家でダラダラしてて、午後から学校に行ったらその情報をゲットして、すぐに再び外に出たダメ人間。先生ゴメンナサイ。

このお店でのロケだったのか俳優さんたちの休憩に使用していたのかは不明だったけど、着いた時にはすでにお店の周りに人だかり。軽く休憩中だったようで窓の外に向かって笑顔で手を振ってくれたりもした。

で、肝心のその人が一色紗英さんだったような記憶があるんだけど、そう思い込んでるだけで実際は小田茜さんかも知れないし瀬戸朝香さんのような気もするし、全っ然違う人なのかも知れない。

ものすごく曖昧なんだけど、顔が濃い女性だったなぁって記憶だけはある。誰だったんだろう。Wikipedia見てみるか。


そうそう、ちなみに学校の隣には源義経ゆかりの神社、「ふなだまさん」こと船魂神社さん。左側の白い校舎が我が母校の函館西高校。

(HPより)
文治の末(1190年)義経一行が津軽より渡る時、逆波が起こり船がまさに沈もうとした時に、船魂明神の御守護により、つつがなく岸にたどり着くことができました。安堵してこの辺りを歩いていると急に喉が渇き、水を探すと童子の神が忽然と岩の上に現れ、指差す方をみると、清水が滾々と湧き出ており、義経は喉を潤おすことができました。義経は改めて船魂様の御神徳に感謝したと云われております。

https://www.funadama.com/

そらぁ「鎌倉殿の13人」で義経を演じられた菅田将暉さん・小松菜奈さんも函館で式を挙げるはずです(?)。 前にも書きました、、、っけ? お二人がお食事会を行なった懐石料理屋さんにて、そのちょっと前、21年10月に伯母の三回忌の食事会を行なっており、私たちも美味を堪能しました(メニューは違うと思うけど笑)。

ついでに、お二人が式を挙げられた神社も現在の実家近所でして、普段から割と普通にお散歩コースで、初詣もコチラでした。

公表されてるかどうかはよく分からないので名前は伏せておきます(検索するとすぐに出てきますが)


で、生家に話を戻すと、んまぁ相変わらず場所が丸わかりなのですが、海上自衛隊函館基地のすぐ隣なんです。その当時の自衛官の皆さんも仲良くしてくれて、使い古したテニスボールをくれたり。

その後、二度に渡って自衛隊からスカウトを受けるという。顔見知りだから声かけられたって訳じゃなくて(笑)、スポーツ系の部活や道場を経験している人のリストが高校から自衛隊に行くらしい(ホント?噂??)。僕はたまたま町の道場で少林寺拳法をやっていたので、たぶんそのリストに入ったんだなぁと。

これは体力的には勿論のこと、集団・団体行動や体育会系独特の上下関係を経験しているかどうかが重要らしくて、慣れていない人はコレに耐えられなくて辞めるってのも結構多いみたい。

ンで、その後のその後、最初に入った会社の最初に入った案件が防衛省(当時は防衛庁)の示達管理システムでしたとさ。

人生って繋がってるなぁ、じゃなくて、人生ってどうとでも繋げられるなぁって笑

ちなみに生家の一階、以前は「株式会社宝幸」(当時は宝幸水産株式会社)の事務所でした。そこにいたおっちゃんも仲良くしてくれて、結構遊んでくれました。

そこから時は流れ、高校一年で引っ越し、18歳で函館を出て、22歳から東京でプログラマとして働き出して、24歳で後輩を引き連れて協力会社に常駐。

中目黒の会社でしたが、途中で合併に伴い泉岳寺に移転。その際、宝幸さんの案件に携わることに。宝幸さんのオフィスは現在は大崎なんですけど、その当時は高輪にありまして、協力会社の新人クンを引き連れて徒歩で伺ってました。

とっかかりの話のネタで担当者に言おうかなぁと思ったら、思いのほか現場は修羅場っていて、ノンキに思い出話するどころじゃなかった笑


……という、色んな方面に思い出深い生家なのでした。

あ~~~、書き疲れた(笑)

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