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#113浅草演芸ホール。(東京観光②)

「落語なんてしゃれたもの、ほとんど聞いたことがないしなあ」(わたし)「少しは勉強してから行った方がいいんじゃない?」(ミドリー)
口ではそう言いつつも、実行力の伴わないわたしたち母娘は、何の予習もせずに次の目的地である浅草演芸ホールに足を運びました。

「え、こんなところにあるの?」

人が行き交う大きな通りに面している演芸ホールは、看板がなければ気づかないような控えめな佇まいでした。お店の前に立っている客寄せの男性も、熱心に呼び込みをしている様子でもありません。

「ここは一度入ったら、ずーっといてもいいんだよ」(テル坊)
「え?今どき、そんなところがあるの?」(わたし)

でも本当なのです。入場料は3000円でお客の入れ替えはないので、いつまで居ても大丈夫なのだそうです(一旦出ると再入場はできません)。

入り口を入るとすぐにホールの赤い扉があり、会場は思ったよりも沢山のお客さんが座っていました。三味線を弾きながら講談をしている女性は、客の出入りを気にするでもなく、気持ちよさそうにチャン、チャランと正座姿で音を鳴らし、首をふってリズムをとっています。

一つの見世物が15分ほどの間隔で、落語、落語、切り絵、曲芸、などと続いていきます。出し物と出し物の間には、舞台の上に敷いてある座布団をくるりと反対の面に替えにやってくる着物姿の若い男性がいます。その人が舞台脇のめくり台もひっくり返し、次の出し物の演目を客席に見えるようにしてくれます。

いよいよ落語が始まりました。「なんだ、なんだ、何の話だ?」って、最初のうちは緊張して肩に力が入っていましたが、次第に話を聞くことに身体が慣れていきます。はじめにちょっと小話があって、次に本題に入っていくのですが、その時に噺家さんが上着の前紐をつつっと外して、スルスルっと上着を脱ぐ。その動作が粋で見惚れてしまいます。

噺家さんは年配の人が多く、ご贔屓にしている噺家さんが出てくると、会場から一声「待ってました!」なんて声もかかります。声がよく通る人もいれば、何を言っているのかよく聞き取れない人もいました。

始めからお客を力強く引き込むような噺家さんもいれば、気づいたら話の世界に引き込まれていたという噺家さんもいました。一人一人、こんなにも話の世界がちがうものかと驚きました。落語の上手い下手よりも、わたしにはもっと面白いと感じたことがありました。

テレビでドラマを見る時、わたしたちは俳優さんがその役を、真剣に演じている様子を画面越しにみます。一番意識が向くのは、登場人物の心の動きであったり、お話の展開であったりするわけですが、テレビの場合、映像が美しかったり、効果音が滑らかだったりというテクニックにまで、意識が向いてしまうことも多々あります(或いはまた、俳優さんの表情の美しさに目を奪われることもあります)。

演芸ホールではもっと素朴な、人間の持ち味だけに意識が向きます。小道具だけを手にし、声一つで芸をしている人たちを目の前で見ながら、人間ってすごいなあ、度胸が座ってるなあと思いましたし、それを黙って見守っているわたしたち観客も、なんだか面白いことをしているなあと感じたのです。

大声で笑う場面などほとんどないのですが、そこかしこでクスクスと声がもれたり、顔がにやけたり、ほろりとしたりしながら、見ず知らずの芸人さんが一生懸命に演じている様子を、こちらも一生懸命に見守っている。芸をみるということは、芸を見守ることでもあり、面白がることだけでなく癒されることでした。

人がただ喋っているだけなのに(失礼な言い方ですみません)目を話せなくて、気づいたら二時間半も経っていました。座りっぱなしでいよいよ腰が痛くなってしまいました。

江戸時代に講談や落語などの興行が催される演芸場を「講談場」「寄せ場」と呼ぶようになったのが寄席の始まりだそうです。浅草演芸ホールでは毎月「上席」「中席」「下席」と10日間ずつ区切られ、各々「昼の部」と「夜の部」があります。

落語のほか漫才、漫談、マジック、曲芸、紙切り、粋曲、ものまね、コントなどを1年365日公演しています。年中無休というところに熱い思いを感じます。人に楽しんでもらいたい、束の間でも笑ってほしい、そんな願いが込められているのかもしれません。




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