【掌編小説】シノノメの婆さん
まただ。やっぱりダメだったか・・・
面と向かって上司に退職する意志を伝える事ができず、無断欠勤。退職に至る思いと、会社に対するどこか形式的な感謝の気持ちを手紙にし、退職願を添えて速達で郵送。どこの会社も意外とこの方法でスムーズに退職願を受理してくれるし、それに伴う煩わしい手続きも郵送で対応してくれる。「退職の一か月前には会社に申し出ましょう」だとか、「法律的には、二週間前に会社に申し出れば、どんな理由であろうが退職できる」だとか色々あるらしいのだが、引き留められることも無く去った会社はかれこれ10数社。20代後半という年齢を考慮しなくても、転職回数が多いと自覚している。一週間もたたず辞めた会社もあれば、半年以上勤めた会社もある。でも、一年続いた会社は無い。
無理なのだ。一言でいえば協調性がない。理不尽な事で叱られ、怒られ、陰口を叩かれ、嫉妬され、無視され、意地悪される。そんな嫌な思いをしながら周りにペースを合わせ、その会社にしがみつく価値を見出せないのだ。
幸いな事に、都市部からちょっとだけ離れた実家住まい。今の所、無職期間の生活費には困らないし、大小こだわらなければいくらでも会社はある。家からの通勤も問題ない。会社を辞めても、母親から「あんた、またなのぉ~!?」と呆れられる程度。父親は転職3回目までは苦い顔押して「しっかりしろ」と言っていたが、もう何も言わない。面接もそれほど苦手ではないので、結構あっさり勤める会社も見つかってきた。
そんな幸運なのか不運なのか良く分からない状況で、なんとなく会社員をし続けてきたのだが、いい加減会社員と言うものが自分には全く向いていないと感じ始めていた。学生時代はバンド活動に夢中になっていて、音楽で食っていこうと思っていたのだが、そう簡単にプロにはなれず、自分には向いていない、と会社員の道を選んだ。その会社員さえも自分に向いていないとなると、俺はこれからどう生きていったらよいのだろう。
そんな事を考えながら、夕焼け色に染まった路地を、散歩がてらふらふら歩いていると、落ち着かない様子でキョロキョロしている婆さんに出くわした。こちらに気付くと、
「あ、突然ごめんなさいね。東雲町ってどちらですかねぇ?」
と、道を尋ねてきた。
「あー、東雲町なら・・・あそこの大通り沿い、大きな通り見えるでしょ。あの大通りをこっち方面に歩いていくと行けるはずだけど、ちょっと距離ありますよ。バスが通ってるはずだけど・・・あそこのバス停から乗れます」
と、あちこち指さしながら答えると、
「あーそうですか。ありがとうございます」
と、バス停に向かっていったのだが、すぐに引き返し、
「ごめんなさいねぇ、お金持ってなくてねぇ。お友達のお宅に遊びに行った帰りに道に迷っちゃったみたいで・・・」
と、不安げにこちらを見つめた。
「あ、そうなんですねぇ・・・。どうしよう、困ったねぇ・・・。とりあえず、一緒に行きましょうか。突然お宅に見ず知らずの人間がお邪魔するのも、ご家族が怪しむでしょうから、家の近くまで送っていきますよ」
と、伝えると
「そうですかぁ。ありがとねぇ」
と、嬉しそうに微笑んだ。
20分程であろうか、婆さんの疲労を気遣いつつ、なんでもない会話をしながら東雲町に向かう間に、日が暮れてしまった。大通りを走る車のライトがあるからまだましだが、道に迷った年寄りが一人で歩くのは、さぞかし心細いであろう。
「あー、見たことのある靴屋が。カトウさんのお店だね」
と、婆さんは嬉しそうな声を上げた。どうやら、家の近くまで来たようだ。
「家の場所分かりそう?」
と尋ねると
「うーん・・・・まだちょっと分からないかも・・・。たぶん近いはずなんだけどね・・・」
と、またさっきの不安げな表情になった。
「この辺りが東雲町なんだけど・・・。一本裏のちょっと細い道行ってみようか?」
と、すぐ先の曲がり角を曲がるよう、婆さんを促した。しばらくすると、
「あー、ここスズキさんのお宅。で、こっちがサエキさん」
と、今まで失っていた記憶を取り戻すように早口でしゃべり出し、とある小さな古い平屋建ての前で立ち止まった。
「たぶん、ここだと思うんだけどねぇ・・・」
その家は電気がついておらず、人のいる気配もないのだが、おそらく自宅に到着したのだろう。
「まぁ、とりあえず家に帰れて良かったねぇ。今度友達の家に行く時は暗くなる前に帰るんだよ。暗くなるとと道分かりにくいし。気を付けて」
と、言うと、
「せっかくだから、お茶でもどうぞぉ」
と、婆さんは、街灯の光にうっすら照らされた玄関の引き戸の鍵を開けた。先程からの噛み合っているような、噛み合っていないような会話、道に迷ってしまった事、そして、人の気配が無い家の事もあって、促されるまま玄関に入った。
「ねぇ、ご家族は?」
と、尋ねると、質問が聞こえているような聞こえていないような素振りで電気のスイッチをパチッと押した。一気に室内が明るくなった。決して綺麗とは言い難い六畳と四畳半の和室、そして広めの台所が玄関を上がると確認できた。どうやら、一人暮らしのようだ。
「あまり綺麗な家じゃないけど、どうぞ」
と、六畳間に行くよう促された。
部屋の隅には、菓子折りの空き箱やら新聞やらが積み重なっているが、綺麗に畳まれた洗濯物もあった。そして、別の隅には少し埃の被ったテレビ、中央には折り畳み可能な、小さめのテーブルが置かれていた。縁側のガラス戸に掛かっている色褪せた薄黄色のカーテンには、小さな花柄が散りばめられていた。
「今お茶入れるからねぇ」
と、婆さんが言うので、
「あ、大丈夫ですよ、お構いなく」
と言い終わる前に、婆さんは台所へ行ってしまった。改めて六畳間を見渡すと、押し入れの襖の隙間から、灰色の猫がひょっこり顔を出していた。チュッ、チュッと口を鳴らして呼ぶと、人懐っこいのか、体を俺の足にこすりつけてきた。テーブルの傍に正座で座ると、
「そんなにかしこまらないでいいんだよぉ」
と、台所の方から声がした。そちらに目をやると、急須や湯呑、せんべいやらもなかが乗ったお盆を持って婆さんが戻ってきた。お盆が小さいせいか、乗せたお菓子が山になっている。
「本当に今日は助かったよぉ。何の気なしにお友達の所へ出掛けたら、帰り道分からなくなっちゃったんだから」
と言いながら、四角いテーブルを挟んだ俺の正面に座った。一口お茶を飲んでちょっと落ち着いたのか、
「ありがとねぇ」
と、安心した表情でこちらを見た。
「一人暮らしなの?」
と、再度尋ねると、
やはり聞いているのか聞いていないかのような素振りで、湯呑を口元に持っていった。どうやら、訳有りのようだ。家族以外の事については、頼みもしないのに色々おしゃべりしてくる。今日会っていた友達が膝を悪くして通院している話。近所の若夫婦の態度が気に入らない話。隣に住んでいる小太りなおばちゃんが、おしゃべりで筒抜けな話。ゴミ出しにうるさい爺さんの話。分かりやすい。
「ねぇ、今日はもう遅くなってしまったから、お暇するよ。まぁ、とにかく無事に帰れて良かった。安心したよ」
と、伝えると
「あらまぁ、じゃあまたいつでも来てねぇ。」「あぁ、お名前は?」
と、ボケているのか、そうでないのか分からないこの不思議で無防備な婆さんは、今頃俺の名前を尋ねた。
「サイトウです」
と俺は名乗り、玄関へ向かった。後をついてきた灰色猫が寂しそうにこちらを見上げている。再会するのかどうか分からないのに、猫を撫でながら思わず「またね」と呟いた。
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数日経っても、婆さんと灰色猫の事が気になっていた。自宅にあった、ちょっとしたお菓子と掃除用ウエットティッシュを、自室の床に落ちていたコンビニ袋に無造作に入れ、自転車で東雲に向かった。ポカポカと晴れた空、心地よく肌に触れる空気。通り過ぎていく景色がとても穏やかで平和に感じられた。目的地に着くと、ガラス戸から灰色猫がこちらを見つめていた。数日前は気付かなかったが、玄関にはインターホンがなかった。引き戸を少しだけ開け、
「ごめんください」
と、声を張った。
すると
「あらまぁ、いらっしゃい。どうぞどうぞ」
と、パッと明るくなった顔と、ニャアニャアという声が近づいてくる。
「ねぇ、ちょっとだけ拭き掃除しても良い?これどうぞ。」
と、ウエットティッシュだけを抜き取り、コンビニ袋を差し出した。
「あら、いいのかい。気づいたら掃除するようにしてるんだけど、すぐに埃が被っちゃってねぇ。追いつかないよ」
と、婆さんは眉間にしわを寄せ、玄関の隅にある雑巾のかかったバケツに目をやった。
「今は便利なものがあるんだよ」
と、ウエットティッシュを見せると、
「そんな物があるんだねぇ」
と、少し驚いたような顔をし、灰色猫は不思議そうな顔をした。
ビニールのパッケージからウエットティッシュを引き出し、とりあえず六畳間の気になる部分をササッと拭いた。ウエットティッシュは一気にこげ茶色に染まってしまったが、新たに取り出したもので再度拭くと、それほどでもなくなった。次に、四畳半の部屋を覗くと、綺麗に畳んだ布団が部屋の隅にあった。ガラス戸の桟が気になるが、とりあえずここは大丈夫そうだ。そして、台所に続く廊下に猫用のトイレが置いてあり、そのそばに人間用のトイレであろう扉があった。少し開けてみると、ウォシュレット付きの洋式便器が、暗闇の中にぼんやり白く光っていた。台所に入ると、中央に置かれたテーブルの上に、食べ物やら調味料やらの袋、食器や、ティッシュの箱などが所狭しと置かれていた。手に取って確認すると、消費期限が過ぎているものが結構あった。
「ねぇ、もう食べられないもの捨てても良い?」
と、少し大きな声で尋ねると
「いいよぉ」
と、六畳間から声がした。
「ゴミ袋どこ?」
と、再びたずねると
「食器棚の引き出しだよぉ」
と返事が来た。
壁側にある小さな食器棚のガラス戸から、ぎっしり詰まった食器が見えた。引き出しからゴミ袋を取り出し、テーブルの上の不要なものを次々と放り込んだ。だいぶスッキリしたが、まだ物が多い。まぁ今日はこんな感じで良いだろうとゴミ袋の口を閉め、石鹸で手を洗い、六畳間に戻る。灰色猫がテレビを観る婆さんの傍で寝息を立てていた。
「簡単に掃除しただけだけど、だいぶ綺麗になったよ」
と、伝えると、
「悪いねぇ」
と、嬉しそうな、申し訳なさそうな表情で、こちらを見た。
「次の指定日にゴミ出しておいて」
と言うと、
「はいはい。ありがとうねぇ。お疲れ様。まぁ、ゆっくりして」
と、ゆっくり立ち上がった。灰色猫はちょっと目を開けたが、すぐにまた眠ってしまった。数日前と同様、お茶と菓子が出された。そして同じく、なんでもない世間話をし、東雲の家をあとにした。
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それ以降も気が向いた時に、幾度となく東雲に行った。家の中が綺麗になるにつれ、何か満たされた感覚、何とも例えようのない喜びに似た感情を感じている自分に気付いた。給料を貰えるわけでもなければ、履歴書に書けるわけでもない。親にはどこに出掛けているのだろうと不審がられるが、それでも東雲の家に行くのを辞めなかった。婆さんの家の掃除が一通り終わると、次に、家の中で安全に生活しやすいよう改良し始めた。例えば、物干し竿に掛けた洗濯物が風で飛んでいかない様、紐を輪っか状にくくり付け、そこにワイヤーハンガーを掛けられるようにしたり、縁側の段差が大きいので、小さな庭にほったらかしにしてあったブロックを踏み台にして、出入りしやすくしたり、押し入れの中の不要なものを処分し、空いたスペースを洗剤など生活必需品のストック置き場にしたりした。婆さんが、怪我などせずに暮らせるであろう安心感が、さらに自分の中の何かを満たしていった。
とある日、婆さんの家の周りに人だかりができていた。どうやら、家の中で死んでしまっていたらしく、つい先ほど遺体が運ばれたそうだ。詳しくは分からないが、心臓発作だの脳が悪いだの、いずれにせよポックリと逝ってしまったそう。苦しまずにあの世へ行ったという話を聞いて、どこかでほっと胸を撫で下ろす自分がいた。
あの灰色猫はどこに行ったのだろうと、あちこち視線をやると、小さな庭の草むらから、ひょっこり顔を出していた。ちょうど、初めて婆さんの家を訪れた時、押し入れの襖の隙間から顔を出しているようだった。俺は、灰色猫を抱きかかえ、自転車のカゴに座らせた。ペダルを漕ぎ出す。
初夏の鮮やかな青空が眩しくて、目を細めた。自転車のスピードに少しおびえている灰色猫の毛が、心地よい風になびいている。きっと、母親に呆れられるであろう。
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