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1999年のマラカナン

 ブラジルのリオデジャネイロにあるマラカナン・スタジアム(Estádio Jornalista Mário Filho - Maracanã)。

 1950年と2014年のW杯ブラジル大会のメインスタジアムだったほか、名門チーム、Flamengo(フラメンゴ)と、Fluminense(フルミネンセ)の本拠地でもあり、サッカーファンなら誰もが知る聖地なのは言うまでもない。2016年のリオデジャネイロオリンピック時には、開会&閉会式の会場としても使われたのは記憶に新しい。

 私が1999年に訪れた時は、2014年W杯や2016年のオリンピックに向けた大規模改修工事のだいぶ前で、1950年建設当時の ”収容人員20万人・世界最大のサッカースタジアム” という枕詞がまだ完全に消えておらず、バックパッカーのバイブル『地球の歩き方』にもそう書いてあった。(注1)

 せっかくブラジルなんて遠くまでやってきたのだ、やはり南米サッカーを生で観たい。と考えていたら、リオに到着したその日の夜、マラカナンで地元フルミネンセFCのゲームがあるというので、同じタイミングで宿にいた日本人と一緒に観戦することにした。

 20年以上前だ、色々と忘れ記憶違いがあったら申し訳ないのだが、一番安いチケットは5レアルだったはず。当時1レアルが80円〜90円のレートで(両替手数料等加味して)1レアル100円弱だな、という感覚で行動していた。だから、チケット500円しないの?!安っす!!と衝撃を受けた覚えがあるのだ。(注2)

 リオデジャネイロは、それまで訪れたペルーやボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの様々な都市とは比べものにならないほど都会で、総じて物価も高かったけれど、サッカーのチケットは安かった。(もちろん今はもうこんな安価じゃない。)


 夕方、メトロに乗って、スタジアム至近のマラカナン駅を目指す。

 セントロ地区から西へ向かうメトロの車内は、仕事帰りのオフィスワーカーらしき人が大勢いて、そういや今日は平日だったわ。と、うっすら25歳としての現実に引き戻されかけた。こんな感覚は南米に来て初めてだ。それでも、マラカナン駅につけば、すぐ目の前の巨大なスタジアムに向かう赤と緑のユニフォーム姿のサポーターが増えてくる、霧雨降る空模様もなんのそのという気分になった。

 チケットブースやゲートの様子を全く覚えていないということは、さほど労せず入場できたのだろう。20万人収容ってどういうサイズ感なんだと首をかしげつつスタジアムの中に入り、おー、そういうことかいな、と理解した。観客スタンドの前方エリアには全く座席が無かった。ただのコンクリートべったりの地面。スタンド上の方は確認できなかったが相当広範囲が立ち見席なのだ。

 これは、人が詰め込まれたら身動きできなくなるぞと不安になったけれど、この日はスペースにずいぶん余裕があったので、人垣をかいくぐりどんどん前方に進むことにした。なぜなら、ピッチを取り囲むスタンドにはほとんど傾斜がなく、ゲームが始まっても前の人に遮られ、ピッチの様子が全然見えないからだ。人々は皆デカイ。ブラジル人ってデカイわ。座っているならともかく立ち見では、ちっこい日本人女は、あっさり埋もれる、なかなかに厳しい観戦環境だった。

 結局、かなり前方で、周囲を熱狂的なサポーターに囲まれ観戦することになってしまった。ぴょんぴょんジャンプして隙間からどうにかゲームの経過を見守る。

 とにかくすべてのスピードが早い。そしてダイナミック。ピッチのボールの動きも、選手のスピードも、そして観客の反応も。それまで日本で、Jリーグの試合や日本代表戦を何度もスタジアムで観てはいた。けれど、こんなにもボールと選手と観客の反応が一気に爆発したかのように動くというのを感じたことが無かった。

 前半だけで既に声が枯れ、雨と汗で全身びっしょりだ。


 ハーフタイムには皆、コンコースの売店に走る。流れにつられ行ってみたが、そこはコカ・コーラしか売ってないようだった。

 「um!!」「cola!!」と、カウンターに硬貨を叩きつけてくるガタイの良い兄ちゃん姉ちゃんたちに、そんな彼らよりひとまわり(横に)デカイ売り子のおばちゃんが、無愛想な顔で次から次に瓶を開栓して寄越す。彼らはその場でコーラを一気飲みすると、ガッと瓶を置いてあっという間に元の場所に戻って行く。

 あれだけ騒いだ後にコーラ、一気飲み。この後もまた大騒ぎなんでしょう?フルミネンセ(リオ市以外のリオデジャネイロ州の出身者)たち、強い。地球の裏側から来た小粒な東京都民は無理せずゆっくりコーラを飲み干した。


 後半、雨もどんどん強くなる。蹴ったボールがゴールネットを揺らす前に歓喜の叫びが起こり、トラップミスの前に頭を抱え、審判のホイッスルの前にブーイングが起こる……。何かすべてコトが起こるより前に起こるコトが見え感情が先に湧き上がる、時空が空間がズレるようなとても不思議な感覚に陥った。

 Força!!

 フルミネンセFCが終始リードしたまま、ホイッスルが長く響き、その日一番大きな歓声。おー!勝った勝った!!と思った瞬間、視界がぎゅいんと動いた。

 ぎゃあああああ〜!と叫んだ時はもう、まわりの兄ちゃんたちに放られ雨降りの夜空に舞っていた。人生初の胴上げだった。

 たまたまそこにいた、ちんまりと軽そうな外国の小娘を数回、空に放って兄ちゃんたちは満足したようだ。勝利の歓喜を分けてくれたのかもしれない。最後に予期せぬ興奮マックス心臓バクバクでへたり込んでる私も含め、そこらじゅうの人たちとハイタッチを交わし、歌いながら観客席から消えていった。


 帰りのメトロでも、車両の壁をバンバン叩き床を踏み鳴らし、愛するチームのチャントを歌うサポーター。私たちも観戦していたと知ると「Ô!!! sushi〜!!! sukiyaki〜!!!」とハイタッチを求めてくる。スシもスキヤキも関係ないけど、どこまでも陽気な人々。

 スタジアム帰りではない、他の乗客も、ああ勝ったのね良かったわねというように、笑顔を向ける。苦笑いの人は他チームのファンか。きっと、これはゲームがあるたび毎週のように繰り広げられてる光景なんだろう。

 あの日のゲームがどういうリーグだったのかも知らず、対戦相手が何というチームだったかも、スコアすらも、もう忘れてしまった。(注3)

 でも、サッカーが大好きで、サッカーで日々あたりまえに一喜一憂する人々の喜びを一瞬でも共有できたこと、あの日あのスタジアムでそんな人々と一緒に感じた興奮は、20年以上経った今も忘れがたい。

 胴上げで目前に迫った夜空は、あの日以来味わえていないのだ。


なかなか酷い記事ですが、スタジアムの変遷写真があります。
下記動画は、2014ワールドカップに向けた改修工事の様子。


(注1)
20万人収容と言われていたが、1992年Campeonato Brasileiro(カンピオナート・ブラジレイロ / ブラジル全国選手権)決勝で発生した観客スタンド落下事故を機に、1999年当時も既に収容人数は大幅に削減しており、実際は最大でも10万人以下だった模様。老朽化も酷くあちこち改修を行っていたのだと思う、そこらじゅう工事中で、非常に雑然とした様子だった。

現在は、全席椅子席で約80000人。
(注2)
ブラジル通貨はハイパーインフレとデノミを繰り返した後、1994年から1レアル=1米ドルの管理相場となっていたが、1999年1月に変動相場制への切替えが行われた。レアルはこの切替えの1月から一気に約60%の価値まで下がった。私が行ったのはちょうどその頃。

労働政策研究・研修機構(JILPT)によれば、1レアル(Real) =87.43円(1999年10月)
https://www.jil.go.jp/foreign/basic_information/1999/brazil_01.html
現在は1レアル20円前後。
(注3)
実は1999年のフルミネンセFCはCampeonato Brasileiro(カンピオナート・ブラジレイロ / ブラジル全国選手権)のセリエCの所属で、要はリーグ3部まで落っこちていた。暗黒期だったのかも。
おそらく私が11月に見たのはセリエCでのリーグ戦で上位カテゴリへの復帰を目指す真っ最中だったのではないかと想像している。フルミネンセFCはこのシーズンのセリエCで優勝、2000年のCopa João Havelange(コパ・ジョアン・アヴェランジェ)はいきさつがよくわかりませんが、その後2001年に無事セリエAに復帰。

直近だと、ガンバ大阪にウェリントン・シウバ選手がフルミネンセFCから移籍してきましたね。


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