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『母性』(湊かなえ箸)を読んで☆彡

『母性』を知ったのは、昨年映画化されたとき。
他の映画を見たときに『番宣』で紹介されていて、興味も沸いたけど、ちょっと見に行くのが怖い、そんな印象を持ってしまい、結局その時には、観に行かなかった。

時は流れ、3月になってからミイコさんの記事を読んで、

記事で紹介されている、ららみぃたんさんの記事にも飛んで、

映画を観なかったけど、『母性』について、頭の片隅に残っていた時、
映画『湯道』を3月5日に見に行って、待ち時間に本屋に立ち寄った。

買おうと意識していなかったのに、ふと、『母性』の本が目に入った。
さらに、湊さんの新作『カケラ』も・・。

2冊をスッと手に取り、購入した。

その後、積読状態になっていたところ、腰痛となってしまい、家に引きこもっていた私は、プライムビデオを見たり、積読されていた本を読み始めた。

☝の記事では、次に読む本に『母性』を入れていた。
『マイ・ダディー』を読んだ後に、『母性』を開いてみた。

読み始めたら、引き込まれた。
読まなくてはいけない、読み続けなければいけない、
なぜかそう思った。

ふと、ミイコさんとららみぃたんさんの記事を改めて読みたくなり、ゆっくりと再び記事を読み込んだ。

記事として読んでいた時よりも、実際に本を手に取り、様々な思いが頭の中に広がっていたので、お二人の言葉がしみ込んできた。
そして、noteの街の『母性』に関する記事も読み漁った。
映画も見てみたいと思ったけど、今はプライムビデオでも無料となっていないためあきらめたが、映画のパンフレットを「メルカリ」で購入した。

私は映画を見ると、必ずパンフレットや原作を購入し、映画を深く、二度楽しむのが、私の映画の楽しみ方だから。

『母性』を読んで、さらに、ミイコさんのおすすめの『私は家族がわからない』(やまもとりえ作)も読んだ。

そして、今日『カケラ』(湊かなえ箸)も読み終わった。

『カケラ』を読み、湊さんの小説の魅力にまた入り込んでしまった。
決して明るい小説ではない、また結果「幸せになりました」ということもない。
湊さんは、「感じ方は読者に任せる」と言っている。

まさに『母性』も『カケラ』も、読者がどう受け止めるか、なのだ。
湊かなえさんはすごい作家だと思う。

自分が、誰の目線でその事件や日常を受け止めるのか、そして、今自分は何者なのか、を考えなければならない。小説の中の情報を自分がどう受け取るのか、問われるのだ。自分自身の感性や考え方が問われるのだと思う。
それが、湊さんの魅力でもあり、ある意味怖さでもあると思う。

『母性』に話を戻したい。
『母性』は、なんと10年前(2011年)に発刊されていた。
「毒親」という言葉が、日本でも使われ始めたころかもしれない。
ちなみに、「毒親」という言葉は1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉だそうだ。

その定義はWikpediaによると、以下のように表されいる。
「毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。

それを知ったうえで、『母性』について考えてみると、
まず思ったことが、なぜこの物語のタイトルは『母性』なのか、ということ・・・。

『母性』とは何か。

色々調べてみた。

ここでは、以下のように書かれていた。

母性とは、女性に先天的に備わっている形態・機能、そして成長過程で精神的・経験的に獲得する子どもや次世代を育てるための特性のことである。

日本では「母子保健法」で尊重され保護されている。
母子保健法上の「母性」は、妊娠、出産、育児という特有の機能を果たす女性そのものを指す概念である。

妊娠、出産、育児という特有の機能を母性行動という。
胎児が健康に生まれ、心身ともに健康に育つことを願って行動することである。
具体的には、妊娠中の分娩準備行動や分娩後の育児行動などがそれにあたる。

先天的に備わっているといわれているが、経験や学ぶことによって後天的に備わることもある。
また、文化や国や時代、社会によって異なることがあるが、本質的には変わらないものとされている。

看護学の中では、母性に関して「母性看護学」という学問がある。
母性看護学とは、妊娠分娩・育児期の母子を対象にしており、父性も含めてその概念や領域を拡大している
#臨床看護 #小児

また、様々な立場での『母性』についての記事を読んだ。

https://taiyonoko.sunshine.ed.jp/wp-content/uploads/pdf/endayori/endayori_201602.pdf

(上の記事は、ある保育園のお便りなので、タップすると見ることができます。ここでは、母性は女性だけにあるのではなく、父性も男性にだけあるものではない、と書かれています)

私がたどり着いた思いは、『母性』という医学的な性は別として、『母性』は女性だけが持つものではないし、『父性』も男性だけが持つものでもないということ。
子どもを産んでも産まなくても、女性も男性も、大人になっていく過程で、また、子どもと関わり、子どもを愛する過程で日々『母性』も『父性』も積み上げられていくものではないか、ということだ。
その役割は、夫婦関係でも違うし、家族関係や人間関係でも違うのだと思う。

そして、次に私が感じた思いは、
「家族・家庭は妻、母という女性だけが作るものではない」ということ。

家族・家庭の関係

この本に出てくる男性たちは、「暴力で従えようとするもの、見て見ぬふりをするもの」として表現されている。

私はやはり、家庭の幸せは、女性だけが作るものではない、いや、逆説的に言えば、男性こそ、家庭を作る大きな存在だと思っている。

それなのに、今の社会はまだまだ『母性』という肩書で、女性をいろいろな意味で責め、子育てや家庭を作る責任を持たせているのではないか、と思う。

本来、家庭を作るのは、そこに属する一人一人。
子どもたちは、その親の影響を受けて育ち、自分自身として自立していくまでは、その庇護の中にいる。庇護されなければ、虐待(ネグレクト等を含む)などであっても、その家族の中で、生きていくしかないのだ。

とすると、大人になって、家庭を持つと決めた時点で、新たに歩みだす夫婦が、
自分は自分の親に対してどんな感情を持っているのか、どんな育てられ方をしたのか、
などの思いを語り合い、育ってきた家庭の違いも受け止めあう。

そのうえで、二人でどんな家庭を作りたいのか、どんな家族を作りたいのか、を話し合い、作り上げていくことが、家庭を持つに相応しい自立した大人としての生き方なのではないかと思わされた。

「わたしは家族がわからない」の本でも、もしお互いに逃げずに語り合っていたら、何かが変わったのではないかと感じている。

その話し合いができないとしたら、本来家族を作っていけないのではないか、そこまでの大切なことなのではないかと思う。
一緒に生きていく、ということは、お互いの人生に対する責任があると私は思う。

どちらかの家族と同居する場合は、難しいことも多い。でもそれこそ、夫婦が支えあう以外にはないのではないか。
つまり、夫婦になった時点で、夫は妻を支え、妻は夫を支えることが一番の役割になるのではないかと思う。

語りあい、相手を思いあう。その中で
過去の自分の親との関係を手放すことができるきっかけになるのではないかと思う。

そして、本当の意味で自立したお互いとして、子育ても共にやっていけたらいいと思う。

人間は、育てられているときにはわからないけれども、大人になっていく過程で、また自立したときに、また子どもを育てるときに、親への見方も変わってくるような気がする。

自分の親への思いだって、良いにつけ、悪いにつけ、「自分ではない、自分とは違う」ことに気が付かなければならないし、まさに、わが子であっても、そこには、親としての学びも必要だと思う。
つまり、「親と子どもは別の人格」であることを知り、受け止めること。
そういう意味では、主人公の母もその境界線が守れなかったし、手放せなかったのではないかと思う。
今回の話は、主人公の母が始まりであり、もしかしたら、小説の中には示されていない、主人公の母がどう育てられたのかもあるのかもしれない。

愛するからこそ、大人として、「こうすればいいのに」「こうすべき」と思ってしまうけれども、親・大人の言葉の重みを自覚したいと思う。
それも、難しいのは、褒めることでさえも、子どもの気持ちを操作してしまうということを意識することが必要だ。

そして、自分が育っていく過程で嫌だったことは、愛するわが子や未来を担う子どもたちにはしない、という決意が必要だ。
手放すことで、連鎖から離れることができるのだと思う。

それでも、人間は神様ではないし、絶対者でもない。
失敗ばかり、罪を重ねてしまうこともある。

愛が、伝わらないこともあるし、守らなければならないわが子や身近な子どもたちに対してよりも、自分を優先してしまうことだってある。

それが子どもの心に重く残ることであっても、自覚がない場合もある。

だから、時には、大人になった子どもに許してもらわなければならないこともあるのだと思う。

事実なのか、嘘なのか

三つ目に私が思ったことは、『カケラ』でも表現されているが、物事の受け止めは一人一人違うこと、
自分を守るために、全て本音を言わないこともあるし、それにより、事実が嘘となることもある。

今回はそのことには触れないが、私たちは誰でも、自分中心に物事を考えてしまう罪深さがあるのだと思う。
湊さんの本は、「語る」人々が登場する。
『母性』でもそうだが、一方は「抱きしめた」と言い、一方は「首を絞められた」と言う。
それこそ何が真実なのか。個人的には、「首を絞められた」受けた側が真実だとは思うが、それもわからない。
そして、どんなことも、自分中心に考えてしまうことを自覚していくことは大切だと思う。

最後に

今朝、素敵な記事に出会った。

子どもは、ただ「抱きしめられたい」、ただ「愛されているという実感が欲しい」のだ。
「愛している」と思っていても、環境だったり、忙しさだったりで、ゆっくりと表現できないこともあったのだと思う。
子どもたちも、寂しかった思いを語り、親も、出来なかったもどかしさを語り合う。
それが出来れば、お互いを赦しあうことができるのではと思う。

私も、母に愛されていたのだと気が付いたのは、本当に最近のことだ。
母もその思いを最近になって語り始めた。

そうであるなら、出来るだけ早くお互いの思いに気が付くほうがいい。
できるのであれば、生きているうちに【人間関係の再構築】を親とできるほうがいい。
何歳になっても、何かのきっかけで「語り合い赦しあう」ことが出来たら・・。
私はそう思って、noteでも発信したいと思う。

たとえ、それが「きれいごと」と思われても、「理想の話」と思われても、願いを語る人が一人でもいてもいいのでは、と思っている。



長い記事になってしまいましたが、
読んでくださり、ありがとうございました
<m(__)m>

#母性
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