争わされるのは誰のせい?:障害者グループホームへのマンション使用禁止判決をめぐって
2022年1月20日、大阪地方裁判所において、これからの障害者の地域生活に重大な影響を及ぼしかねない判決が下された。成人障害者の地域に根ざした生活拠点の一つとして、日本政府も設置を推進している(はずの)障害者グループホームをめぐり、マンション管理組合側が、20年前から同マンションに入居していたグループホームの運営法人に対して、住宅以外の使用を禁止した管理規約に違反するとして訴訟を起こしていた。裁判所は、グループホームの運営法人に、マンションの使用禁止を命じた。
グループホームは、入居する障害者にとっては、れっきとした「住宅」である。入居者の生活支援のため、「世話人」などの職員が常駐することにはなるが、「住宅以外の使用」などと言われる筋合いはないはずである。現にこの判決を受け入れてしまえば、このマンションの一室で暮らしている障害者は、文字通り「住宅」を追い出されることになるのだから。
さすがに裁判所も、グループホームが「住宅以外の使用」にあたるとまでは言えないと考えたのか、使用禁止の理由として挙げたのは、マンション管理組合側に防火対策で追加の費用負担が発生することが「住民の共同の利益に反する」ためということであった。
20年前からマンション所有者の許可も得てグループホームを運営してきた法人が、この期に及んでなぜ管理組合から訴えられるような事態に至ったのだろうか。ここに至るまでの経過では、運営法人と管理組合、双方の間でのコミュニケーション不全もあったのかもしれない。報じられていない背景事情については推測の域を出るものではないが、判決の主たる理由として挙げられた、防火対策における追加の費用負担の発生という問題については、実はこのグループホームがマンションに入居した当時にはそもそも問題にさえならなかった事項であるという点を、議論の前提として押さえておく必要がある。
2015(平成27)年4月の消防法令改正に伴う消防用設備の設置基準の見直し以降、障害者グループホームには原則としてスプリンクラーの設置義務が課された。裏を返せば、それ以前は、一定の面積要件に該当しない限り、スプリンクラー設置は必要なかったわけである。「入居者の安全確保のため」というのがその大義名分なのだが、この義務化が行われたのは、認知症高齢者のグループホームでの火災事案が立て続けに起きてからのことである。認知症高齢者向けグループホームでの設置基準の厳格化が、障害者グループホームにも準用されたというわけである。
日本の障害者福祉の歴史は、長らく、大規模入所施設への隔離・収容を基調としてきた。それは、障害者にとっては、社会の大多数の人々が構成するコミュニティから切り離され、排除されることを意味していた。障害者が必要とする手助けを受けながら地域生活を営むことを正当な権利として、地域での支援施策を充実させていく動きはまだまだ途上にある。グループホームが国の制度として体系化されるはるか以前から、先駆的にグループホームを設けて障害者の自立生活支援に取り組んできた組織・団体では、往々にして、消防設備どころか耐震性さえ心許ない空きテナントを安値で借り受けたり買い取ったりするところからしか、自前の生活拠点を構えることさえ難しい現実があった。
国が障害者の地域生活に対して無関心であった時代から、障害者支援の現場で、なけなしのお金と知恵をしぼり、何もないところから草の根で作り上げてきたのが、グループホームという居住支援の仕組みである。国はそうした現場の苦闘を、後追いで制度として法定化するという「お墨付き」を与えて、後出しジャンケンのように、スプリンクラーをつけろだの、耐震性を強化せよなどと言ってきた(それ自体の必要性は否定しないが)わけである。そのうえ、それらの設置費用は自前で払え、というのである。自治体によっては、費用の一部は補助してあげますよ、というところもあるが、それも申請すれば必ず補助してくれるとは限らない。
グループホームに入居する障害者の生命の安全を確保する責任が、グループホームを運営する事業者にはある。そんなことは国から言われるまでもなく当然のことである。そのうえで、こう問わねばならない。障害者の居住環境を整え、生命の安全を確保する責任は、運営事業者の自助努力にのみ委ねられるものであってよいのか。障害があろうとなかろうと、「健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利」(日本国憲法第25条)の大前提となる、居住権を実質的に保障すること、そのために必要な環境整備への経済的支援を行うことは、ほんらい、国の責務ではないのだろうか。
本件訴訟は、グループホーム運営法人とマンション管理組合の二者間の対立構図の形を取っているのだが、問題の本質は、国家が人々の居住権の保障をサボタージュしていることにある。安全かつ快適に住める場所がなければ人は健康に生活することはできないのに、住む場所を確保し整備することを「自助」と「共助」の領分として、公的な住宅政策を一部の低所得者向けの公営住宅に限定し、さらに縮減してきたのがこの国のやり口である。それは、なぜ私たちは毎月の家賃や光熱水費、電気代、住宅ローンを支払うことにこれほどまでに苦労しながら生きていかねばならないのか、という問題にも通じている。
国家のサボタージュのツケを負わされて、住民同士が争わされている場合ではない。私たちは、「グループホームが大事だというなら設置に必要なカネは国が出せ!」「障害者も安全に住めるマンションにしたいから設備投資の必要経費は国が払え!」と、正々堂々と共闘し、主張してよいはずなのだ。
(2022年1月22日 筆)
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