わたなべみつよし

大阪の下町で子どもたちと遊んで暮らすソーシャルワーカー。ときどきイベントプランナー。た…

わたなべみつよし

大阪の下町で子どもたちと遊んで暮らすソーシャルワーカー。ときどきイベントプランナー。たまにベーシスト。日々の生活のなかでふとわきあがる思考の断片を、とっちらかったまま、気の向くままに書き残していきます。

マガジン

  • ソーシャルワーカーの発達論ノート

    子どもの育ちを支えるとはいかなることか。子どもと関わるおとなの役割とは何か。学校の先生でもなく、小児科医でも精神科医でもセラピストでもない、ソーシャルワーカーの立場から考えます。

  • 空気は読まずに吸うものだ

    元来、「空気を読む」のは苦手です。積極的に「読みたい」とも思いません。時代に漂う空気を吸い込んで、においを嗅ぎ分け、感じるままに吐き出してみた、言葉たちの記録です。

  • 支援:この因果なる生業

    人助けが生業として成り立ってしまうのは、因果なものです。「ソーシャルワーカーは必要不可欠!」なんて社会は、ロクなもんじゃありません。この業界に足を突っ込んでからずっとそう思い続けて、それでも相変わらず足を洗えずにいる現在地から、「支援」をめぐって折に触れ想起する、あんなことや、こんなことを綴っています。

  • 狂気と正気のあいだ

    もともと同名のブログで、いろんなテーマの文章をごった煮状態でアップしていました。その中から、死生観について、身体とこころについて、芸術についてなど、実体験をベースに内的思索を巡らせた文章をこのマガジンに引き継ぎます。新作記事もアップしていきますのでぜひお読みください。

  • かわりばえしない、またとない一日。

    見たもの、聞いたこと、触れたもの、それらに触発されて、気まぐれに綴る詩集です。(note開設前に使っていた同名のブログから、誌や散文のアーカイブも転載します)

最近の記事

概念以前の世界の探求とその障壁|ソーシャルワーカーの発達論ノート#003

生まれたばかりの赤ん坊にとっては、目に映るもの、きこえてくるもの、吸い込んだ空気のにおい、すべてが未知との出会いであり、驚きと発見である。あらゆる感覚刺激にとりまかれる混沌の只中で、はじめのうちは泣き叫ぶしかなすすべのない子どもも、次第にそれがただちに自らを脅かすものではないと察することができるようになると、「これはいったいなんだろう」と探求をはじめる。 首がすわり、寝返りがうてるようになると、子どもの世界は奥行きと広がりをもちはじめる。首を左右に振るたびに、今まで見えてい

    • 土と交わり水とたわむれ火をおこす|ソーシャルワーカーの発達論ノート#002

      神奈川県川崎市には、子どもの育ちの現場に身を置く者のあいだでは広く知られている「子ども夢パーク」(以下、ゆめパ)という社会教育施設がある。川崎市の条例に基づき、子どもの権利条約第31条「遊び、休息、余暇の権利」を保障するための場として、それ以前から民間で活動していた不登校の子どものフリースクールを統合するかたちで設置された、子どもの遊び場である。このたび、「ゆめパのじかん」という映画が公開され、各地でスクリーンに映る子どもたちの生の躍動に多くの観客が魅了されているが、私もそう

      • 子どもに「指導」は必要か|ソーシャルワーカーの発達論ノート#001

        学校、あるいは保育所に代表される児童福祉施設など、子どもが集団で活動し生活するようしつらえられた場では、「指導」という言葉が頻繁に用いられる。そこで働くおとなの役職名にも、「指導」という言葉が貼り付いている。 おとなが子どもに対して「指導」を行うことの必要性が語られるとき、その場における望ましい振る舞いや正しい判断の道すじについて、おとなの側があらかじめ最適解を持っている、との認識が所与の前提とされる。親がしばしば我が子に対して、「先生の言うことをちゃんと聞きなさいよ」など

        • 争わされるのは誰のせい?:障害者グループホームへのマンション使用禁止判決をめぐって

          2022年1月20日、大阪地方裁判所において、これからの障害者の地域生活に重大な影響を及ぼしかねない判決が下された。成人障害者の地域に根ざした生活拠点の一つとして、日本政府も設置を推進している(はずの)障害者グループホームをめぐり、マンション管理組合側が、20年前から同マンションに入居していたグループホームの運営法人に対して、住宅以外の使用を禁止した管理規約に違反するとして訴訟を起こしていた。裁判所は、グループホームの運営法人に、マンションの使用禁止を命じた。 グループホー

        概念以前の世界の探求とその障壁|ソーシャルワーカーの発達論ノート#003

        マガジン

        • ソーシャルワーカーの発達論ノート
          3本
        • 空気は読まずに吸うものだ
          1本
        • 支援:この因果なる生業
          1本
        • 狂気と正気のあいだ
          5本
        • かわりばえしない、またとない一日。
          2本

        記事

          「支援」を問うまなざしの不在について

          東京都小平市を拠点に、1978年より、障害のある子どもの放課後・休日の居場所づくりに取り組んできた「ゆうやけ子どもクラブ」という場がある。映画「ゆうやけ子どもクラブ!」は、障害のある子どもたちの放課後保障を目指す先駆的実践として知られるこの場と、そこに通う子どもたち、そこで働く職員との関わり合いの日々の一端を切り取り、観る者に差し出す。 映像を観るかぎり、「ゆうやけ子どもクラブ」では、一人ひとりの子どもに基本、担当の職員がペアで付くようだ。担当職員は、時に子どもの自由な動き

          「支援」を問うまなざしの不在について

          「触欲」という根源的なもの

          先日、国立民族学博物館の特別展「ユニバーサル・ミュージアム さわる!“触”の大博覧会」を体験してみた。そこで触発された思考を少しばかり記してみる。 展示物の説明の一節で、「触欲」という概念が用いられているのを見つけた。「食欲」と同音異義の新たな概念の創発に、なるほどと唸りつつ、同時に、「さわる」こと、「ふれる」ことをめぐる欲求に、これまで名前が与えられていなかったという事実に気づかされ愕然とした。 「さわる」「ふれる」展示群に身を置くなかで思い出していたのは、アメリカの心

          「触欲」という根源的なもの

          かくれんぼ

          もういいかい まぁだだよ もういいかい まぁだだよ もういいかい もういいよ みつかったら やだな とっておきの ひみつきちだから みつからなきゃ やだな きみがくるの まってるんだから (2018年11月30日 筆)

          承認のディストピアからの自己救済:映画「JOKER」によせて

          己の傷つきや無力さに否応なく直面させられたとき、その場を笑ってやり過ごすという術しか持ち合わせないまま、承認の輪のなかから排斥されつづけること。そんな圧倒的孤独の果てに主人公がたどり着いた境地は、この悲惨を背負って生きていることそれ自体が「喜劇」である、というものだった。 映画「JOKER」では、他者からの承認を求め続けては裏切られ、笑い者にされ、そんな自分自身を笑うことでしか社会のなかに自らを定位できなかった不器用な一人の男が、ある契機を境に猟奇的殺人を繰り返し、自ら「J

          承認のディストピアからの自己救済:映画「JOKER」によせて

          囚われからの自由は可能か:劇団態変「心と地」によせて

          フィクションは事実ではない。しかし、秀逸なフィクションは、人間の業をめぐる真実を呈示する。 非常時において、容易く安全地帯に逃げられる者は、富める者、そしてその取り巻きたちである。もっとも、平時より安全地帯に身を置く者は、逃げる必要さえない。 窮する者は、富める者に生殺与奪の権を握られているゆえに、富める者に媚びへつらう他には、窮状から抜け出しうる術を持たない。 救われる者と、救われざる者との線引きには、客観的な合理性などなく、ただ、線引きを行う側の恣意にのみ委ねられて

          囚われからの自由は可能か:劇団態変「心と地」によせて

          時空の歪み、シンクロニシティの破綻

          劇団態変の新作公演「翠晶の城」を観た。 今作は引き算の演出とでも言おうか、これまで私が観てきたどの公演よりも、個々の身体の動き、陰影そのものを押し出す演出がなされていたように思う。 暗闇の中で照らされる身体のみにしか視点を合わせようがない状況下で、知らされるのは、存在とは時空の歪みであり、生体においては不規則性こそ自然であるということ。 人為的につくりだされた「時間」の観念は、いついかなる場面でも、60回の波を一区切りとした規則のもとで、いま、ここでの生命活動を枠付ける

          時空の歪み、シンクロニシティの破綻

          腐らずにいられる条件

          死を迎えたその瞬間から、腐敗がはじまる。 何それ、当たり前じゃないの。そう思われただろうか。 しかし、考えてみれば不思議なものではないか。結局のところ、腐敗をもたらす要素はすでに常に私の内側に備わっているのだ。それにもかかわらず、私の身体は腐らない。 腐らないための条件、それは変化し続けているということだ。 身体を組成する細胞ひとつひとつは、分子レベルでの代謝により、数ヶ月も経てばすっかり入れ替わっている。一瞬たりとて、細胞は変化を止めることはない。その変化が止まると

          腐らずにいられる条件

          それでもどうして

          それでもどうして わたし いきているの あのとき もう おわったはずでしょう 「おいで」と ひとこと よびかけてくれるなら まよわない あなたのもとへ それでもどうして わたし わらっているの しあわせなど もう わすれたはずでしょう 「つらいね」の ひとこと あたたかさがこわくて だいじょうぶ また うそをついて それでもどうして なみだ かわいてしまうの いたみは まだ きえないはずでしょう 「もういいよ」の ひとこと あなたがゆるしても わたしが わたしを ゆるして

          それでもどうして

          私がnoteを開くまでのこと

          子どもの頃から、自分が「ちょっと変わっている」ような気がしていました。 じっさい、周りからも「ちょっと変わっている」ように見られて、居心地の悪い気分を味わった時期もありました。 「ちょっと変わっている」ことの何が悪いのか、と思いながら、キラキラしている同年代の人には、ひねくれた羨望を抱く青年期を過ごしつつ、いろいろな成り行きで福祉を学び、その業界でメシを食っていくことに決めました。 研究者としてメシを食えるようになることを目指して、奨学金を借りながら大学院に9年間も居ま

          私がnoteを開くまでのこと