土と交わり水とたわむれ火をおこす|ソーシャルワーカーの発達論ノート#002
神奈川県川崎市には、子どもの育ちの現場に身を置く者のあいだでは広く知られている「子ども夢パーク」(以下、ゆめパ)という社会教育施設がある。川崎市の条例に基づき、子どもの権利条約第31条「遊び、休息、余暇の権利」を保障するための場として、それ以前から民間で活動していた不登校の子どものフリースクールを統合するかたちで設置された、子どもの遊び場である。このたび、「ゆめパのじかん」という映画が公開され、各地でスクリーンに映る子どもたちの生の躍動に多くの観客が魅了されているが、私もそうした観客の一人として、ゆめパで遊ぶ子どもの姿から想起したことを綴ってみる。
ゆめパといえば、何をおいても土である。建物以外はすべて土であるといってよい。まさしく土の広場である。そこでは、すべての外遊びが、土との交わりの上に成立する。ふだんはコンクリートと人工物に覆われた世界を生きる子どもも、むき出しの土の広場に足を踏み入れると、しだいに、土に触れ、土をこね回し、土にまみれはじめる。
ゆめパの土はいつでもどこかで水と混ざり合っている。あるところでは田んぼの実験所となり、またあるところでは泥プールとなり、また別のところではあらゆる手ごねの造形物が生み出される工房となる。それぞれの場には子どもが集い、自然発生的に協働と社交と、そしてしばしば諍いも起こる。
子どもは水に濡れることを厭わない。むしろ濡れたがる。水とたわむれる場には、子どもの叫びと笑いが響き渡る。水は、不思議なことに、冷やし続けると固まり、熱し続ければ白い湯気となって空気に溶けゆく。ときには空から降ってきて、冬にはしばしば白く輝く結晶となって、触れてみると一瞬のうちにひとしずくの水へと姿を変える。ホースを振れば水は波うち、物をぶつければ弾ける。その変幻自在さは子どもの興味を惹起してやまない。
ゆめパでは、焼き芋を食べたくなったり、ドラム缶風呂に入りたくなったり、枯れ葉のたき火で暖をとりたくなったりしたときは、子どもたちが自分で木切れをとってきて、火をおこす。年長の子どもから、幼い子どもに、火のおこし方が伝承される。
土と水と火。それらは、生態系の一部として埋め込まれた哺乳類の一種としてのヒトが、自らの置かれた環境への適応と働きかけを通じて独自の生活様式を編み出す上で不可欠の要素であった。肥沃な土と潤沢な水があるところで、ヒトは定住という選択肢を見出し、農耕・牧畜という生産手段を発明した。あるいはそれらの乏しい土地では、土と水を求めてヒトは移動を続けた。そして、火の発見と使用という出来事を通じて、ヒトは、土から器や呪具をつくり、他の生き物に熱を加えて食べるという生活様式を編み出した。世界各地における民俗・宗教の多様性をこえて、その基底にある文化の原型をなすのは、ヒトと土・水・火との関わりである。
土と交わり水とたわむれ火をおこす。それらの体験は、まだヒトが生態系のいのちの循環から切り離されることなく生と死を全うしていた有史以前の時代に、文化の原型を長い年月を経てかたちづくっていった過程を身体まるごと辿りなおしていくことでもある。ゆめパで過ごす遊びの時間が、子どもの生き物としての本来持っている力を呼び覚ます側面があるとすれば、このあたりにも理由がありそうだ。そして、育ちの過程においてこの原体験をもちうるか否かは、子どもの世界との向き合い方やつながり方を意識以前の段階で大きく規定せずにはいないであろうと、私には思われる。
(2022年8月14日 筆)
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