子どもに「指導」は必要か|ソーシャルワーカーの発達論ノート#001
学校、あるいは保育所に代表される児童福祉施設など、子どもが集団で活動し生活するようしつらえられた場では、「指導」という言葉が頻繁に用いられる。そこで働くおとなの役職名にも、「指導」という言葉が貼り付いている。
おとなが子どもに対して「指導」を行うことの必要性が語られるとき、その場における望ましい振る舞いや正しい判断の道すじについて、おとなの側があらかじめ最適解を持っている、との認識が所与の前提とされる。親がしばしば我が子に対して、「先生の言うことをちゃんと聞きなさいよ」などと諭すことがあるが、そこでは、「先生の言うこと」の内実を疑ってかかる視点は希薄である。
メディアでセンセーショナルに報じられる「不適切指導」ならともかく、子どもはおとなと比べて未熟なのだから、おとなが子どもに対して、ルールを遵守することの大切さや、物事の良し悪しを教え込むことは必要ではないのか、と考える向きもあろう。しかし、結果的に「不適切指導」として取り上げられるに至った事例でも、なんとか子どもに正しい行いを身につけさせなければならないというおとなの側の使命感がその発端にあることは少なくない。そして、そうした背景が見えてきた場合、今度は批判の矛先が、一転して、指導に従わなかった子どもの側に向けられていくこともある。
広辞苑で「指導」という語を引くと、第一に「教えみちびくこと。特に現代では、勉強、研究の方法などに関する助言を与えてみちびくこと」とある。この定義からは、体罰はもとより、暴言・威嚇などによる高圧的な力の行使は「指導」の名に値しないことは明白である。ただし、「指導」そのものが、成熟・熟達した者が、未熟な者に対して行うものであるという両者の関係の非対称性に根ざすものである以上、いかなる「指導」も、「指導」する者による、「指導」される者に対する力の行使であることは否定し得ない。
少なくとも、誰もが一個の人格として互いに対等であるという基本的人権の原理を共有するのであれば、「指導」の定義に包括されうるような力の行使は、きわめて限られた事柄について、双方が目的を共有し、合意の上ではじめて許容されるものであろう。目的の共有のためには、「指導」の手前で対話が成立していなければならない。素朴に考えて、一方が他方の言い分に無条件に従わなければならないような関係性は歪んでいる。加えて、例外的事態として、一方からもう一方に対して行動の制約を課すこともやむなしとされるのは、相手の行為が自他の生命や財産を脅かすおそれがきわめて高いと判断される場合のみである。裏返せば、互いの人格の対等性を尊ぶ人間関係を育み、保持していくには、それだけ、力の行使に対して各々が禁欲的でなければならないのである。
しかし、子どもとおとなの関係性においては、子どものあらゆる言動が「指導」の対象とされ、「指導」の正当性がおとなの側から一方的に宣告される。おとなは、人格の対等性を尊ぶために超えてはならない一線を、日々の生活において容易に踏みにじることができてしまう。それも「この子のために」という善意の名において。
果たして、「指導」を必要としているのは子どもなのであろうか。実は、子どもを前にして、自らの優越性を揺るがぬものとしたいおとなにとっての手放しがたい手段として「指導」が必要とされているのではないか。「指導」という発想をいったんゴミ箱に捨ててしまって、丸腰でどう子どもに相対すればよいかとうろたえる。その覚悟を決めることからしか、目の前の一人の子どもを固有の人格として尊び、ただの人間同士として対等な関係を切り結ぶ地平に立つことは難しいのかもしれない。
(2022年5月5日 筆)
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