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「触欲」という根源的なもの

先日、国立民族学博物館の特別展「ユニバーサル・ミュージアム さわる!“触”の大博覧会」を体験してみた。そこで触発された思考を少しばかり記してみる。

展示物の説明の一節で、「触欲」という概念が用いられているのを見つけた。「食欲」と同音異義の新たな概念の創発に、なるほどと唸りつつ、同時に、「さわる」こと、「ふれる」ことをめぐる欲求に、これまで名前が与えられていなかったという事実に気づかされ愕然とした。

「さわる」「ふれる」展示群に身を置くなかで思い出していたのは、アメリカの心理学者ハーロウによる有名な動物実験のことである。子どもの発達過程について多少なりとも勉強していれば、ハーロウの動物実験について一度は学ぶ機会がある。

ハーロウの実験のなかでもとりわけよく知られている実験は、生後間もないアカゲザルの赤ん坊を、母親から隔離したうえで、哺乳瓶を取り付けた針金製の人形と、ミルクの出ない布製の人形を設置した檻に入れたところ、赤ん坊は、ミルクを飲める針金製の人形ではなく、ミルクの出ない布製の人形にしがみつき続けたというものだ。

アカゲザルの赤ん坊は、空腹を満たすこと以上に、触覚から得られる安心感をより切実に求める。この実験結果は、当時のアメリカの育児文化にも変革をもたらすほどの大きな反響をもって受けとめれられたという。

ヒトの乳幼児も、養育者に接触することを求めて止まない。むしろアカゲザルや類人猿よりもはるかに未熟な状態で生まれてくるがゆえに、新生児期においては自力で養育者にしがみつくことさえままならず、抱きかかえてもらわなければ、まったくの無防備な状態で世界に放置されることになる。

ヒトがこの世界に産み落とされて間もない時点からの原初的な体験は、抱きかかえられ、包まれるという触覚体験である。いや、抱きかかえられずにいる時でさえ、重力を全身に受けとめ、地面と接触し続けている。それが地球上におけるヒトの存在様式なのである。

哺乳の際には、空腹を満たすのみならず、肌と肌との触れ合いを通じて安心感が満たされる。安心感の得られる状況で、副交感神経が活性し、ヒトは眠りに誘われる。いくつになっても、寝床につくとき、ヒトは身体を毛布や布団で包む。また、肌と肌の触れ合いを求め合うことは、互いの親密さを確認する行為として、おとな同士の間でも日々なされている。このように、ヒトの基本的な生理的欲求として挙げられる食欲・性欲・睡眠欲についても、それらを充足するうえでは、「さわる」こと、「ふれる」ことが欠かせない。

ヒトは、「さわる」こと、「ふれる」ことを通じて、自らの身体を世界に位置づけ、その存在を確かなものとする。感染症対策のために身体的距離の確保(Physical Distance)が執拗に呼びかけられ続けてもなお、その間隙をぬって、「触欲」に突き動かされ、「さわる」こと、「ふれる」ことを求めざるを得ないのは、きっとそうした事情によるのだろう。「触欲」がこれまで名付けられてさえいなかったのは、吸っては吐き出す空気のように、なぜそれが必要なのかの理由を考えることすら不自然なほど、生存の前提となる根源的なものであるからかもしれない。

(2021年11月30日 筆)



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