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「支援」を問うまなざしの不在について

東京都小平市を拠点に、1978年より、障害のある子どもの放課後・休日の居場所づくりに取り組んできた「ゆうやけ子どもクラブ」という場がある。映画「ゆうやけ子どもクラブ!」は、障害のある子どもたちの放課後保障を目指す先駆的実践として知られるこの場と、そこに通う子どもたち、そこで働く職員との関わり合いの日々の一端を切り取り、観る者に差し出す。

映像を観るかぎり、「ゆうやけ子どもクラブ」では、一人ひとりの子どもに基本、担当の職員がペアで付くようだ。担当職員は、時に子どもの自由な動きを見守り、時に子どもの甘えの発露を身体まるごと受けとめる。ビデオカメラは、とりわけ小集団での活動に自分から入っていこうという素振りがない(ように見える)数名の子どもたちにフォーカスを当て、それぞれの子どもが執念さえ感じさせる特定の遊びや行動パターンのプロセスをたどりつつ、同じことの繰り返しのようでいながらそこに次なる成長の萌芽がみられることを提示していく。その子どもたちの傍らには、常に、担当の子どもにあたたかなまなざしを向ける職員がいる。

この映画には、一貫して、子どものよき理解者であろうとする「よい大人」しか登場しない。職員は日々の子どもの記録や行動観察での気づきをミーティングでふりかえり、子どもが示す言動の意味を深く理解しようと意見交換を重ねていく。「ゆうやけ子どもクラブ」に子どもを通わせる保護者は、「うちの子はゆうやけで、コミュニケーションや社会性を学ばせてもらっている」「うちの家庭にとってゆうやけが無くなることはありえない」と手放しで感謝の声を口にする。そして、少なくともこの映画で取り上げられている子どもたちは、ペアで付く担当職員への愛着をあけすけに示し、泣いたり、叫んだり、抱き着いたりしながら、自己の存在が確かに守られているという実感を得ようとしている。

職員も、保護者も、子どもも、互いに互いを大切に思い、コミュニケーションを交わそうとする世界が、スクリーンには映し出されている。いくぶん予定調和に過ぎるようなこのヒューマニスティックな場からは、その心温まる予定調和を乱すノイズが消されている。あるいは、はじめから制作者はそうしたノイズには関心がないのだろうか。屋外散歩に出かけるシーンでも、公園で遊ぶシーンでも、カメラがとらえるのは、「ゆうやけ子どもクラブ」に通う子どもと、その担当職員との間で、どんな時空を共有し、どんなコミュニケーションが生成されているのかという点に尽きる。

観客は編集された映像を通してしか、「ゆうやけ子どもクラブ」と、そこに通う子どもたちの日々について知るすべはない。その限られた情報からの邪推かもしれないが、「ゆうやけ子どもクラブ」に通う一人ひとりの子どもと、その近所に暮らす人々や、地元の子どもたちは、はたしてどれだけ互いを知りあうことができているのだろうという素朴な疑問がわいてくる。頻繁に施設の外に出かけているし、地域社会で日々を過ごしていることは間違いない。それにもかかわらず、「ゆうやけ子どもクラブ」に集う者が織りなす温かな世界と、ゆうやけから一歩外に出た世界が、どこか没交渉で、切り離されているかのような印象をぬぐうことができない。

「ゆうやけ子どもクラブ」に通う子どもたちは、自らをより深く理解しようと努める大人に取り巻かれている。少なくとも映像からはそう見える。それは当の子ども自身にとって、とても安心感に満ちた環境ではあるかもしれない。しかし、安心感を満たしてくれる世界の住人でいることが、わが身に振りかかるリスクを引き受けつつ自らの人生を切り拓き謳歌していくことには必ずしも結びつかないのではないか。

この映画には、「支援を必要とする子ども」に対して「よき支援者」が寄り添うことは善であるという発想を疑うまなざしが存在しない。本当にこのカメラがとらえる目の前の子どもは、支援が「必要」なのであろうか。なぜ子どもの傍らにいるのが、いつも「ゆうやけ子どもクラブ」の職員なのか。子どもの側から、担当職員による見守りや働きかけを拒絶する自由は、はたしてどこにあるのだろうか。この映画を観る者が、子どもに関わる大人の献身性に素朴に心打たれ、温かな感動だけを持ち帰り映画館を後にするならば、そこで制作者からも観客からも顧みられず排除されるのは、子どもたち自身が、行き届いた配慮と支援の網の目をかいくぐり、その外部で、別様の社会関係を取り結びうる可能性に他ならない。

(2020年3月8日 筆)

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