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概念以前の世界の探求とその障壁|ソーシャルワーカーの発達論ノート#003

生まれたばかりの赤ん坊にとっては、目に映るもの、きこえてくるもの、吸い込んだ空気のにおい、すべてが未知との出会いであり、驚きと発見である。あらゆる感覚刺激にとりまかれる混沌の只中で、はじめのうちは泣き叫ぶしかなすすべのない子どもも、次第にそれがただちに自らを脅かすものではないと察することができるようになると、「これはいったいなんだろう」と探求をはじめる。

首がすわり、寝返りがうてるようになると、子どもの世界は奥行きと広がりをもちはじめる。首を左右に振るたびに、今まで見えていたのとは異なる景色が目の前にあらわれる。「あそこにあるのはなんなのか」。とにかく触れたい。感じたい。手を伸ばし、つかめれば口に含み、もっとも鋭敏な感覚をもつ舌でそのなにものかをなめ回し、じっくりと調べてみる。手が届かないと、「あれを渡してくれ」と、ことばにならないことばで主張する。

ずりばいにより、自力での移動が可能になることは、子どもにとっては革命そのものである。これまで身体の置きどころから手の届く範囲でしか世界を探索できなかったのに、今や触りたいものを自分で触りにいくことができるのだ。一方で、子どもが自力でどこにでも行こうとし、何にでも触ろうとする身振りをとるようになることは、養育者にとっては心配の種にもなる。おとなは、子どもが口に含もうとするものが「食べもの」の概念に含まれるものでなければ、「おいしくないよ」「なめちゃダメ」などとなだめすかしてそれを子どもの手と口から引き剥がす。

移動の自由を獲得しはじめたときから、子どもにとっては、身近なおとなが障壁として立ちふさがることになる。子どもにとっての人生の試練は、身近にいるおとなが必ずしも自らの意思や欲望を支持する者としては存在しないという事実に否応なく直面せざるを得なくなるところからはじまるといえよう。

主体性を育てる、などという物言いが、子育てや教育の望ましいあり方をめぐって喧伝されて久しい。しかしながら、本来、主体性なるものはおとなが意図して育てようとする前にすでに生命活動の自然な成り行きとして発露してしまうものなのである。自らの身体をとりまくこの環境はいったいなんであるのかを探求するためのあらゆる努力は、新生児の時点からその子なりのやり方で発揮されている。

そのように発揮される主体性を尊重することは、おとなにとってはそれほど生易しいものではない。尊重するよりもほどほどのところで抑え込む方がおとなにとってははるかに都合がよい。少なくとも主体性に関するかぎり、おとなは日々の生活の中で往々にしてそれを制限し奪い取る存在として子どもに立ちはだかっているということはわきまえておくのがよい。そのわきまえがあってこそ、どのような条件のもとであればどの程度まで子どもの邪魔をせずに見守る構えでいられるかを具体的に考えられるようになる。

(2023年1月9日 筆)

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