温故知新(51)備中松山城 須佐之男命(孝霊天皇) 鯉喰神社・弥生墳丘墓 大阪城 五十瓊敷入彦命 和泉黄金塚古墳 名古屋城 建稲種命(狭穂彦王) メスリ山古墳
大阪城は、多氏一族のまつる多坐弥志理都比古神社(多神社)とチャタル・ヒュユクを結ぶレイライン上にあります。また、大阪城は、福井県小浜市にある加茂神社と五十瓊敷命の墓と推定される和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)を結ぶライン上にあります(図1)。このラインは、和気氏や弘法大師所縁の神護寺(京都市右京区)、千手観音を本尊とする総持寺(大阪府茨木市)、大阪城(大阪市中央区)、住吉大社(大阪市住吉区)の近くを通ります(図1)。大阪城と和泉黄金塚古墳がレイラインでつながっていることから、大阪城のある場所に、仲哀天皇(小碓尊)に討たれたと推定される難波の柏済の神(五十瓊敷入彦命と推定)の城があったと思われます。
これは、五十瓊敷入彦命を祀る伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)と剣山を結ぶラインが大阪城の近くを通ることと整合し、大阪城のある場所の近くに、五十瓊敷入彦命の城があったと推定されます(図2)。
品陀真若王(出雲建)の城だったと推定される鬼ノ城と大阪城を結ぶラインには、倭文神社と西大寺観音院を結ぶライン上にある神籠石系山城の1つである大廻小廻山城跡があります。大廻小廻山城跡からは、白鳳期から奈良時代初期に比定される須恵器片が出土していますが、遺構との共伴関係にはなく、遺跡の年代特定に至るものではないとされているようです。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命、豊玉姫命)の城があったと推定される岡山城と大阪城を結ぶラインの近くには、百枝八幡宮や天王山古墳群があるので、これらの城は邪馬台国(やまとのくに)と関係する城だったと推定されます(図3)。
名古屋城とチャタル・ヒュユクを結ぶラインは氣比神宮の近くを通ります。名古屋城の場所には、邪馬台国の時代から城(尾張城)があったのではないかと思われます。岡山城と名古屋城を結ぶラインの近くには、木鍋八幡宮(岡山県瀬戸内市長船町)、赤穂大石神社(兵庫県赤穂市)、賀茂神社(兵庫県たつの市)、本瀧寺(大阪府豊能郡能勢町)、東寺(京都市南区九条町)、多度大社(三重県桑名市)などがあります(図4)。したがって、名古屋城(尾張城)も吉備の邪馬台国と関係する城だったと考えられ、尾張地方は邪馬台国(やまとのくに)に属していたと思われます。
金田屋野姫命(神功皇后と推定)の父で東征副将軍だった建稲種命(狭穂彦王と推定)は、メスリ山古墳の被葬者と推定され、メスリ山古墳と熱田神宮を結ぶラインの近くには能褒野神社がありますが、メスリ山古墳と名古屋城を結ぶラインは、熱田神宮と丹生氏ゆかりの大虫神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。これらのラインから、名古屋城(尾張城)は、建稲種命(狭穂彦王)の城だったと推定されます。
狭穂彦王の墓と推定されるメスリ山古墳と、狭穂姫命の墓と推定される行燈山古墳の築造時期がずれていることからも実際に邪馬台国(やまとのくに)に反乱を起こしたのは狭穂彦王(建稲種命)ではなく、仲哀天皇(小碓命)と推定され、狭穂彦王の反乱が『古事記』における最も物語性の高い記述とされるのは、後世に創作されたためと思われます。行燈山古墳は、現在宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されています。
瑜伽山(由加山)とパレルモを結ぶラインは、大山祇神社(愛媛県今治市)とサムハラ神社 奥の宮(岡山県津山市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。瑜伽山(由加山)とパレルモを結ぶラインの近くには韓竈神社(島根県出雲市)があり、大山祇神社とサムハラ神社 奥の宮を結ぶラインの近くには、岩子島 厳島神社 鳥居(広島県尾道市)や備中松山城(岡山県高梁市)があります(図6)。また、サムハラ神社 奥の宮と瑜伽山(由加山)を結ぶライン上には岡山市北区の御津金川や御津中山があります(図6)。
備中松山城は、孝霊天皇(須佐之男命)の陵墓と推定される鯉喰神社・弥生墳丘墓とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります。臥牛山の頂上付近に建つ備中松山城(写真トップ、1、2、3)は、鎌倉時代に最初の城が築かれたとされていますが、巨石を利用していて、棚畑遺跡や岩屋岩蔭遺跡ともレイラインで結ばれ、図6のフェニキア人の建設したパレルモとつながるレイライン上にもあることから、古代から山城があったと思われます。備中松山城のある臥牛山が牛頭天王と関連し、備中松山城は、須佐之男命を祀っていると推定されるサムハラ神社 奥の宮とつながり、高天原と推定される場所にも近いことから、須佐之男命(孝霊天皇)の城があったのではないかと思われます。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市)とメンフィス博物館を結ぶラインは、備中松山城の近くを通ります(図7)。このラインは、おのころ島神社(兵庫県南あわじ市)、寒霞渓(香川県小豆郡小豆島町)、安仁神社(岡山市東区西大寺一宮)、須佐神社(須佐大宮)(島根県出雲市)の近くを通ります(図7)。備中松山城は、メンフィス、熊野速玉大社、須佐神社とレイラインでつながっていることから、須佐之男命と関係が深いと推定されます。
ブラウロン遺跡(Archaeological Site of Brauron)と熊野速玉大社を結ぶラインは、中蒜山(なかひるぜん)や美作国一之宮 中山神社の近くを通ります(図8)。熊野速玉大社、大山祇神社、中蒜山山頂を頂点とする三角形のラインを描くと、大山祇神社と中蒜山を結ぶラインは、図7の熊野速玉大社とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。熊野速玉大社と大山祇神社を結ぶラインの近くには、山方比古神社の境内社で、天津麻羅を祀る立岩神社(徳島市)があります(図8)。また、中蒜山と熊野速玉大社を結ぶラインの近くには、美作国一之宮 中山神社があります(図8)。熊野速玉大社とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、須佐神社や備中松山城があるので、このラインは、備中松山城と須佐之男命を関係付けていると推定されます。
須佐之男命(孝霊天皇)を祀っていると推定される大鳥大社は、オリンポス山や白兎神社とレイラインでつながっていますが、サムハラ神社 奥の宮を通る大鳥大社とメンフィスを結ぶラインは、備中松山城と白兎神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。大鳥大社とメンフィスを結ぶラインの近くにある廣峯神社(兵庫県姫路市)は、クレタ島のラト遺跡ともレイラインでつながっていて、廣峯神社には、武蔵七党「丹党」嫡流中村氏(大河原時基)が、備前長船住景光、景政作の刀(1329年、現国宝)を奉納しています。
大島神社と備中松山城を結ぶラインの延長線は、アレクサンドリアとアンコール・ワットを結ぶライン上にあるモヘンジョダロに到達します(図10、11)。モヘンジョダロは、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、衰退の原因としては、近年の研究では大規模な洪水によると考えられています。遺物の印章に「陸地を探すための方向探知鳥とボート」というものがあります。天鳥船神と関係があるかもしれません。
渡り鳥がどのようにして方角を知るのかについては、網膜に存在するクリプトクロームと呼ばれるタンパク質が関係しているという説があり、その過程には量子力学でのみ説明できる量子の振る舞いが関係していることがわかってきたようです。人間の脳は量子計算をしているとの研究結果もあります。旧石器時代人は、地磁気の角度を感知する能力があったか、あるいは、鳥などの持つ能力を活用する技術を持っていたのではないかと思われます。ノアの方舟の洪水伝説でも鳥が登場し、神武東征の日本神話にも八咫烏が登場します。鳥の翼を持ち、空から船の舳先に降り立ったサモトラケのニケは、鳥のように方向を知ることができたのかもしれません。
鯉喰神社(弥生墳丘墓)とハドソン湾を結ぶラインは、須佐之男命を祀っていると推定されるサムハラ神社 奥の宮の近くを通ります(図12)。孝霊天皇(須佐之男命)の陵墓と推定される倉敷市の鯉喰神社(弥生墳丘墓)とオリンポス山を結ぶラインは、備中松山城を通りますが、備中松山城と備前国総社宮(岡山市中区祇園)を結ぶラインは、鯉喰神社とハドソン湾を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12)。
これらは、備中松山城が須佐之男命(孝霊天皇)の城だったと推定されることと整合し、鯉喰神社(弥生墳丘墓)が、孝霊天皇(須佐之男命)の陵墓と推定されることと整合します。したがって、須佐之男命が乱暴をはたらいて高天原を追放されたという話は、後世に創作された話と推定されます。