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急性骨髄性白血病との8ヶ月に及ぶ生活

第二章 生きる事って重要?


 最初に苦しさを覚えたのは、意外にも精神面で、鈍感な人間でも心に息苦しさを覚えることを知った。
病室は大部屋で、この中では割と年齢も高く、頗る健康そうな自分は申し訳ない気持ちと、罪悪感で悶々としていた。
 僕の病気よりもっと辛い人もいるだろう。元気な高校生がベッドの上でダラダラしている姿は、ただただ周りに対する侮辱行為なのではなかろうか?そんな事は、悩んでどうにかなることでも無いのに悩み続けて、当然の如く答えは出ない。行動しないと変わらない現実。それは、まるで細い針で何回も肺を刺されている様だった。

考えた事に意味があると思いたい。

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 もう一つ、考えた事がある。『死』についてだ。
この“急性骨髄性白血病”は現代では、死ぬ可能性はそれ程高くない。が、それでも生存率は6、7割なので今まで通り、とは行かない。万が一は考える必要があった。

 この病気になって、治療中もっとも死亡率が高いのが、抗がん剤治療クールタイム期間だ。僕が受けた治療は、何回かに分けて、抗がん剤を点滴によって体内投与するもので、投与中の活発な細胞活動を弱体化させる効果がある。髪の毛、爪、赤血球や血小板など、日々増殖し続ける細胞に対して効果が発揮され、抗がん剤治療の過程で髪の毛が抜けるのは、このため。増殖が活発な癌細胞を抑え込むために、体の様々な機能を低下させる。しかし、この抗がん剤を続けて長期間投与することは、もちろん出来ない。他の細胞へのダメージが、大きくなりすぎてしまうからだ。
 その為、抗がん剤の投与→細胞の回復→投与......。を繰り返して、癌を極限まで減らし寛解という形に持っていく。この方法で癌が少なくなれば、まあ成功だろう。
 この細胞の回復期間が最も危険な時期だった。
免疫細胞の低下により、普段なら寝たら治るような風邪でも、命を落とす可能性があった。

 「もし死ぬのなら、何か遺書など書き残した方が良いの     だろうか?」
 「それとも映像で何か伝えようか?」
 「家族が悲しむだろうから、励ませる内容が....」
 「友達とか学校には何て言えば......。」

 色々考えたけど、結局何も残す気になれなかった。本当に”死ぬかもしれない“と、この頃は思えて無かったんだろう。その時が来たら考え直そうと思い、思考を放棄してしまった。それに死ぬのが嫌だとか、長生きしたいとか、自分自身が感じた事はない。もちろん考えたこともない。

家族や友達を悲しい顔にしたく無い。その想いだけが
思考の奥にひっそりと存在していた。死にたく無い理由は他者に依存する。そう思った瞬間が通り過ぎる。

僕自身が死ぬ事に関して人並みの恐怖はあったが、その時が来たら受け入れようと思うこともあり、また、生きる事がどうでも良くなる事もあった。この時に思い残す事があるなら、俳優になれなかったことだった。けれども大学受験の準備や俳優になるために何か特定の努力をしてこなかった自分には、分不相応な思いであり嘆くことを許されない願いだ。

「死んでも良いや」という考えが通常になってしまうと、本当に死んでしまう様な気がして、死の肯定が湧き上がってくるたびに生きていなければならない理由を幾つも考えた。まだ有名俳優に成れてないぞ、とか学校に帰らないと、とか宿題終えてないぞ、など。
あとは好きな食べ物を幾つかピックアップして、退院するまでお預けにしていた。人間の3大欲求に入る食欲を使った、この方法は自分にしては上手くいったやり方で、院内の献立は2種類から選択する事ができたため、自主的に好きな食べ物がない方を選んで食べていた。好きなものを全部食べられないのは、それはそれでストレスなので良いバランスだったと思う。でもまあ結局、固形物を喉に通すのは嘔吐感の妨害によりそもそも困難であった。

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