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人間の習性とブランディング


〜みたにノ戯言P.9〜

商品を売り出す時には、その会社や顧客に合わせたブランディングが行われる。僕の場合だと、どの方向性の役者として売り出すかが常に問われる。コメディ、恋愛、アクション、ホラー、シリアス系など、どの様な作品に出るかによって、またどの様な作品に出たいかによって、俳優としてのブランドが形成される。言い忘れていたが、僕自身は今まさに俳優の卵(修行)の身のため、売り方(ブランディング)は非常にニッチな問題なのだ。


でも、個人的には色々な役や現場を経験したいわけで、どれか、特定の方向に突き詰める気がなかなか起きない。

同じような役しか出来なくなるのはヤダ!
ただ楽しく行きたいだけなんだ!
ブランドって必要?
そもそもブランドって何よ(笑)

という思いから、”ブランド“なる存在とその影響を考えてみたくなった。いつものことながら、個人的空想と偏見の域を脱し得ないかもしれないが、それ込みで楽しんでいただけたらと。


本題に入ろう。
ブランドとは何か?

現代人誰もが知るwiki先生では

ブランド(銘柄、英: brand)とは、ある財・サービスを、他の同カテゴリーの財やサービスと区別するためのあらゆる概念。当該財サービス(それらに関してのあらゆる情報発信点を含む)と消費者の接触点(タッチポイントまたはコンタクトポイント)で接する当該財サービスのあらゆる角度からの情報と、それらを伝達するメディア特性、消費者の経験、意思思想なども加味され、結果として消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体。

とある。要するにその存在に対するイメージのことであるようだ。特に2行目の「他の同カテゴリーの財やサービスと区別するためのあらゆる概念」は情報過多な昨今の状況下で、何か目的を持ってアピールしようとするときに、必要なことであるように感じる。

でもなんで必要なんだ? 

多分だが、その存在のブランド価値の成立とその影響は、発進側よりも受け手に強く依存し、作用している。
まず、発信側にはイメージに沿った道を外れないようにする負担と、物事の効率化が必要になるだろう。商品の開発でも、人物像の形成だろうと、想像力には限界があるので、世に出し続けるためには、想像の供給源の確保と自身や商品にそれを落とし込む作業の効率化が必要であると思う。

次に受け手に於いては、現代を生きる人間の価値観と習性が、大いに関わってくるように感じる。

何よりも

人は評価を求め、評価をしたがる。

評価という区分によって、それを理解しようとするのだ。
というか、評価を何らかの形でいちいち与えていかないと、現在の社会で生きて行けないのではないだろうか?

それは人間の自己愛とエゴイズムに大きく関わってくるように思われる。


人は評価し、自分なりのまたは社会の評価による順位を与えて、その物の価値を理解しようと努めている。自分自身ですら、常に評価の対象である。自身の社会的地位と社会的価値は他者の判断に委ねられるものが大きい。
多分人は、評価されなかったらされなかったで、自身の存在価値を疑い始めて、最悪、生きる意味を喪失するのではないだろうか?まず社会的に生きて行く事はできなくなるだろう。批判ばかりの人生も辛いが、なにも言われない人生はもっと辛い。

絵画や骨董品など芸術は、専門家の評価が価値の決定に大きく関わっている。これもブランド化と同じところがある。実際の原価や利便性、デザインなど自らの経験が基盤となった主観で選ぶというよりは、自分より特定の分野に優れた人の方が、より有益でその事物に対して自らが希求する情報を正確に把握し伝達すると思うわけだ。

本当に必要なのは、やってくる膨大な情報を主観に基づき整理、選択する事だろう。でも僕もそうだが、他者の判断が過干渉する事で、主観からかけ離れた無責任であやふやな思考が構築されてしまう。

我々は常に、その”ブランド“が自身と取り巻く環境にとって有効な評価をされているのかを考え続ける選択が、必要なのではないだろうか?

自立した主張の元に他者を
受け入れる余裕を開ける事ができる。



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