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「わたし」と「他者」とのあれこれ


たまーに、ごくたまに、喫茶店で1人でコーヒーを飲んでいる時とかに、ラジオを聴きながら歩いたことのない道を歩いている時とかに、ふと、他人とわたしの関係性について、自分が生きていることについて、ぼんやり考えることがあります。これといって信ぴょう性もなく、正解もなく、一個人的な考えで終わるのですが、その断片的かつ見る人が見たら当たり前だと思うかもしれない思考を、今日は文字にして残しておこうと思います。



好き・嫌い


人間誰しも、好きな人や嫌いな人がいます。ということはわたしの事も、好いてくれている人と嫌っている人がいるということ。
もちろんわたしも嫌い(個人的には人に対して嫌いという言葉は使いたくない、使うなら「苦手」)な人はいますし、世の中の全ての人に好かれたいとも思っていません。
ただ、わたしを好いてくれる人がいるのならば、わたしは貰った好きと同じくらいの好きを、言葉や行動で返したいです。例えばわたしの場合、好きな人間へのプレゼントにはほとんど必ずお手紙をつけて渡すみたいな感じのささいな行動とかで。




その「人」の成り立ち


その人がもつ人間性?性格?は、その人が生まれ育ってきた環境や、その人が今まで出会ってきた人達との関わりなどによって構築されていくものなのではないかと考えます。新しい人と出会う度に、自分とは違った視点からみる考えに触れる度に、本当に世の中は千差満別で、色んな人が居るな〜、面白いなと感じます。
「わたし」は、あらゆるものがひとつになって形成されているのだと思います。育ててくれた家族とその周りにいる人達、小さい頃に親が体験させてくれた物事、見せてくれた風景、かけてくれた言葉。家族が「内」ならば、学校などの「外」で出会う人や物事も含め。きっと、「わたし」以外のものとの出会いがあるからこそ、「わたし」はつくられている気がします。わたし以外の存在がなければ、わたしはそもそもわたしではない。




わたしという面


わたしって何なんだろう、肉体的な「わたし」は1人しか居ないけど、精神的な「わたし」は様々な内面をもっています。天使なわたし。悪魔なわたし。どちらでもないわたし。他者と関わることで気づくことの出来る 今 / 過去の自分の良いところや悪いところをちゃんと自覚することは大切であるし、この先の未来、色々な知識や経験を通してまだ自身も知らない面を見せるであろう未知な「わたし」も受け止めてあげたいとも思います。



余談ですが、小学生の頃、自分と同じ名前に親近感を持ち、金子みすゞの「わたしと小鳥と鈴と」いう詩を暗記してA4のコピー用紙に詩を書き、自作の絵付きで大好きな祖父にプレゼントしたことがあります。


人間ではないものと「わたし」を比べて比喩的に「みんなちがってみんないい」 ということを伝えていて、子供ながらに素敵な詩だなと感じました。一級建築士で事務所を持っていた祖父が、自分の作業机にわたしの書いたその紙っぺらを邪魔だろうに大事そうに飾ってくれていました。そんな記憶のお陰からか、この詩は今でも口に出してすぐに言えます。よい記憶。




最後に


なるべく人に愛される存在ではありたいと思っています。それにはまず自分を認めてあげることが大切なのかもしれない。でもそれがなかなか難しい。それは自分が完璧な人間ではなくて、正すべき部分が沢山あることを分かっているから。けれどそれがなかなか正せないから。それも含めて自分だと思いたくても思えないから。
何事も、分かっているのに出来ないのはもどかしいものです。しかし、毎日それを細かく具体的に理解しようとして、もし自分が息詰まるような事があったら良くないと思う。たまには目の前のことを抽象的に捉えてあげるのも良いのかなと思います。



以上。独り言です。

また書きます。

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