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日本を滅ぼす『精神論』…プロは失敗しない!・サムライ『侍』とは何なんだ!

 よく日本では、物事に失敗した時に、
『頑張ったのだから、失敗なんてよくある事よ!次こそ頑張ってね』   と言われることがあります。
 でもこれはある意味、
 『アマチュア』の人に向けた言葉
であり、
  失敗するのはプロでは無いし、許されない
ことを肝に念じることが重要なのです。勝負に敗れたプロは退場せざるを得ないのです。『お疲れさん』とは言えても、『よく頑張ったんだから仕方がないよ』と言われることがプロへの賞賛でしょうか?
 情けは人のためならず、敗軍の将兵を語らず
と、潔く退くことこそ名将やプロのすることなのです。
 意味不明の言い訳や責任転嫁論(政治家が最も得意)で言い張って自己弁護に余念のない国こそ、日本の現実です。
 最近、超絶人気のあった『侍ジャパン』という呼称が日本全国を席巻していました。
 一体、何を意味するために『侍…』とつけていたのでしょうか?
 きっと、格好よく聞こえて、外国から見ると強そうに聞こえる
まぁ、こんなもので無いでしょうか?
 恐らくそれ以上問わなくていいじゃんか!
と聞こえて来そうですが、せっかくの機会ですからこの『侍(さむらい)』という言葉の意味する処を少し、考えてみましょう!
以下、笠谷和比古氏の記事より抜粋加筆しました。
★★
 侍の気構えと行動を規定したのが武士道です。戦闘なき徳川時代になって精神的な徳義へと変容し、やがて庶民の生活経済倫理にまで影響を与えていくことになりました。「武士道」という言葉の出現例の初期に属するのが、武田流兵学の聖典として知られた『甲陽軍鑑』である。武士道のその後の展開は、外面的な武勇よりも内面的な強さを重視し、人としての徳義を涵養することを主意とする方向に向かって行った。平和になると武士はその存在意義を問われることになる。彼らは戦士としてだけではなく、領域を統治する公共的な行政組織(幕府・藩)の役人として活動することによって、新たな社会的役割を見いだしていく。すなわち、治安・警察の機能、法律の作成や裁判制度の整備である。これらは武士的な役柄であるが、それにとどまらず、道路や橋梁(きょうりょう)の修復といった交通インフラの整備、治水灌漑(かんがい)、新田開発、耕地改良、防火防災、災害復旧、殖産興業、病院・薬事などの分野も担っていく。
 「奉公の至極の忠節は、主に諫言(かんげん)して国家を治むる事」
(聞書第二)とも述べて、主君が誤った方向に進んでいるならば、主君を諫(いさ)めて藩と御家が立派に治まるよう奮闘努力することこそ武士として最高の忠義の在り方としている。ここでも武士道は人間としての陶冶(とうや)、修養を重んじるものとなっている。
 
武士道の教え、すなわち「嘘をつかない」、「卑怯(ひきょう)なまねはしない」、「最後まで誠実に行動する」という倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に商取引を中心とする経済活動において信用を何よりも重んじるという気風を育むこととなった。
                               ★★
 さて、上の記事を読まれた感想は如何でしょうか?
 こんな立派に考えていた人達が本当に住んでいたのか?と思わず現在の国を疑ってしまいませんか?
 それとも野球の世界だけに存在するのでしょうか?
 今は昔の物語。無いものねだりかも知れませんが、失ったもの大きさを感じざるを得ません。
 かつて戦に敗れた(とは言わない人もいますが)のも、『死ぬ気で頑張れ!』と言われて気が付いたら『ほとんど戦死』していた。疲れると、『気合が入っていない!たるんでいる!』と罵詈雑言を浴びせられて仕方なく死んでいくことばかりでした。
 よく考えると、気合が入ろうが無かろうが、これで勝てることなどあり得ないのですが、神の国でもない(無神論国家)のに、神風が吹くとか、御加護があるとか、勝つまでは欲しがりません!とか。
 でもよく考えると、これらは戦略・戦術など持ち合わせていないリーダー達の唯一の砦が『精神論』であった訳です。なんの資源も知恵も必要としないので無限に要求できます。これこそ
 敗北の論理
以外の何物でもないのです。
 未練がましく失敗してもしがみつく世の中がすべての試みを失敗に結びつける要因になっていると思いませんか?
 科学技術大国と言われて、技術立国日本と言い続けて何が起きたのか?
 衆庽政治と言うギリシャ人達が起こした大失敗を引き継いで増幅している日本と言う国は、歴史的には極めて象徴的な例として未来永劫に分析対象となり続けるでしょう。

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