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わたしの放浪記(0) 〜葛藤する日々〜

旅立つことになったきっかが実はたくさんあったので、そのあたりを知ってもらうことで理解が深くなるかなぁと書いてみた次第です。

旅立つまでの葛藤をもう少し補足せにゃわかりにくいかも…と不安になりまして、当時のわたしの葛藤状態をエピソードゼロとして書いていきます。

もともと、内気な性格で自分を外に打ち出すことが苦手なタイプだったけど、その分頭の中の声がやまないほど色んなことを考えていたように思う。

何を仕事にしたいかで散々悩んだ経験もあるし、分析したり考えたりするのが好きな自分だからこそ、その特性を生かしたいと転職して就いた仕事が転職エージェント。

キャリアアドバイザーとして転職面談をしていた頃が社会人生活の中で一番充実していた。
人と話すこと、特に人の人生の選択に深く関わるような話をする中で、考えを一緒に整理したり前向きになるような言葉を選んだり、人を前向きにマインドセット出来た時なんかも面白かった。

しかし同時に、社会という大きな枠組みに対して違和感を抱き始める時期でもあった。
もともと社会に対して斜に構えていたタイプだけど、さらに拍車がかかったのだと思う。

転職エージェントは内定が出て初めて会社の売り上げに繋がる、逆に言うと内定がとれない人は数字にならないから見極めて切り捨てる、というシビアな判断が要される。

担当してた人が面接を受けた先の人事から来るお見送りメールは冷ややかなもので、「地頭NG」と一言だけ返ってきた時があった。勿論そんな人事ばかりではないけど、さすがに心無いメールに違和感を覚えた。
しかし、その人事に対して非難をすることは同時にエージェントとして受かる人かどうかを判断をしている自分自身に非難をしていることになる。
私自身もクライアントを地頭やアピアランス(見た目)で判断しているのだ。

社内でも
「この人どう?」
「んー、ちょっと地頭が…」
なんてやりとりをしてしまっていた。

段々自分に辟易としてきた。
うまく言葉が出ない人も、思考を整理するのが苦手な人も確かに沢山いた。だけどそんなことで人の価値を決めていく私は何様なんだろう…。
この社会の中で生きていくには効率よく仕事をする人でなければいけない、そういう人でないと利益を出せないという事情はわかるが、そこで生きていけないような不器用な人はどうなるんだろ…


そんな葛藤に耐えられなくなって仕事を辞めた。
そうして、発達障害を持つ方の就労支援の仕事に就いた。
これまで私が切り捨ててきた人たちのことが気になったのだった。

そこではこれまで関わりのなかった臨床心理士やカウンセラー資格を持った人たちと働くことになる。


しかし、そこでもまた葛藤が生まれることになる。


そこの臨床心理士の方は尊敬出来たのだが、中途半端なカウンセラーほど怖いものはないと思った。 

この子は〇〇で〇〇だからだめなんだよねー、と判断して決めつける。その見立ての仕方に違和感があったりもした。
自分は弱いものを救う素晴らしい人間である、という気持ちの悪い自負を感じるのだ。
 

私は臨床心理士の方と仲良くなり、そのカウンセラーさんのことで話をしたことがあったのだけど、そのカウンセラーさんのことを”病的水準を持っているクライアントと変わらない人だ”と臨床心理士の方は判断していたのだった。

カウンセラーであるのにも関わらず一番カウンセリングが必要なのは当人だった。
でも確かに弱い立場の人を助けたいと思うのは、実は自分が救われたいからこそなのだと思った。

苦しい経験をした人は自分を救いたくてカウンセラーになる。少しずつ苦しかった時の自分の念が成仏すれば良いのだけど、それが上手くいかなかった時、自分が病的水準であることを忘れて、自分こそが慈悲深い人間だと勘違いしながらカウンセラーをするのだ…歪み方がえげつない。

しかもそのカウンセラー、”多様性”なんて謳いながら、自分の意見と合わない人を周囲の人を言葉巧みに騙して潰しにかかるという厄介さもあった。
“多様性”と言いながら、少しでも意見が違う人を簡単に非難する姿勢は矛盾そのものだった。


ところが、私だってそのカウンセラーを非難しているのだ。
カウンセラーと同じだ、自分と立場の違う人を非難している…多様性なんて言える立場じゃないことに気がついてしまった。

相手に投げたブーメランが自分の喉に深く食い込んだ。

ちなみに、この悩んでる最中に読んでいたのが、朝井リョウのこの本。

昨年映画化されていた作品。
当時のわたしの葛藤そのものが書かれていて、胸がえぐられるような痛快さがあった。


私はとにかく他者を非難しようとすれば、そのブーメランが必ず自分に返ってくるのだった。

当時全てが嫌になっていた。
この効率化されすぎた資本主義社会も憎かった。


これもその当時読んでた本、この作品もわたしの思う違和感が綺麗に言語化されていて読んでいてスッキリした覚えがある。


社会に対して憎んでも、この資本主義の恩恵を間違いなく享受しているのは間違いのないこと、わたしは社会を憎む権利すらないと思ったのだ。

相手を非難すればその全ての非難が自分に返ってきてしまう、社会を憎んだところで、その恩恵にあずかっている自分が言えた立場ではないことを理解している。


ぐるぐると葛藤し続けて、本当に死ぬ思いだった。笑

でも死にきれない…

だから…

少しでもこの社会から反発してしてやろう、大量生産大量消費の満たされない社会の輪から出来る限り抜け出して田舎で隠遁者のように生きようと考えついた。

ひとり旅をしたのにはそういう背景もあった。

当時は正しいか間違っているかの天秤にかけて、自分の思う正義が全てだと思っていた。
気持ちよく正義を振りかざせば良いものを、異常に高性能なメタ認知が働いて自分自身が断罪対象になってしまっていた。

よくもまぁ、ここまで考えるわ…。と完璧主義な自分に引いてすらいたけど、当時はそうする以外なかったのだ。

そんな状態のわたしが、これからどんな出会いを果たして解放されて行くのか。

放浪記シリーズをお楽しみください。



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