お風呂に入ることでさえ「誰かのため」でした
こんにちは。AKERUです。
今回は承認欲求について、気付いたことをお話したいと思います。
承認欲求が強いと、何事も「他人に認められるため」「他人に変だと思われないため」「怒られないため」に行動してしまいます。
思えば、自分もこれまでは承認欲求が強いタイプだったと思います。
例えば、お風呂に入ることさえ、他人のためでした。汗臭いと思われたくないからお風呂に入っていました。人に会う予定がなければ、お風呂に入りたくありませんでした。
歯磨きや髭剃りも、そんな感じです。そんな日常の些細なことまで、承認されることが目的になってしまっていました。
しかし、30歳を迎えるタイミングで、そんな生き方に限界が来たのか、「人の目を気にすること」「誰かのご機嫌を取ること」「他人の顔色を伺うこと」が本当に無理になりました。
それは、会社の上司だけでなく、実の両親に対してもです。これ以上、ご機嫌取りのようなことをしていたら、死んでしまうと本気で思いました。
ほぼ同じタイミングで双極性障害と診断され、鬱症状のときは身動きができなくなりました。
自分なりに考察すると、おそらく歯磨きをするにもお風呂に入るにも、承認欲求があったから動けていたのですが、その承認欲求を拒絶してしまったことよって、「目的」を失ってしまい、身動きができなくなったのだと思います。
休職してからちょうど1年経った現在、どのような変化があったかというと、「自分が心地よくなるため」「自分の血行を良くするため」お風呂に入ることができています。
これが、自分的にはかなり大きな変化でした。
別にお風呂好きアピールをしているわけではなくて、細かい物事に関しても、「自分のため」「自分の気持ちを大切にして」行動することができるようになったという一例をお話しました。
こういう承認欲求にとらわれた生き方をしてしまった原因は、育った環境にあるのだと思います。常に癇癪持ちの両親の顔色を伺って生きてきました。
怒られないように、不機嫌にならないようにビクビクしながら生きてきた自分は、まるで臆病者のピエロみたいでした。そして、そんな自分を「優しい」人間だと誤認識してしまったのでした。
今思えば、それが自分の成長には障害となっていたように思います。なぜなら、自分が今まで「優しさ」だと思っていたのは、ただの「自己犠牲」だったからです。
「自分が我慢すればいい」「自分は後回しでいい」「自分のことはどうでもいい」
そうやって物事を解決した気になったり、辛い時期をやり過ごしていただけだったんです。その方が楽だったからです。自分の感情を表に出したら、とんでもないことになる。そんなトラウマがあったのだと思います。
しかし、そんな「自己犠牲」は精神をすり減らします。目に見えないだけで、自傷行為と変わりませんし、「本当の優しさは自分のことを犠牲にすることではない」と、今になって思っています。
よくよく考えてみれば、自分の意見や気持ちが他人と食い違うことなんて良くある話ですよね。そんなときに、自分の気持ちを犠牲にして、完全に相手の思い通りの選択をすることは、「優しさ」ではなくて、相手にとって「都合が良い」だけです。
きっと人間関係を上手に築くコツは、各々の考えや思いが公平に尊重されるように、折衷点を模索することなのであって、自己中心的でも、自己犠牲的でもダメなんです。
簡単な例えをすると、自分が中華を食べたいときに、友達がイタリアンを食べたいとします。そういうときに、簡単に自分が我慢すればいいと考えるのではなくて、「両方食べれるバイキングにする」「じゃんけんで決める」「なんとなく間をとって焼肉にする」「家で両方作って食べる」など、色んな折衷策を模索すればいいんじゃないでしょうか。
もし「自分が我慢すればいい」といった自己犠牲的な対応ばかりしていたら、不満が溜まりますし、生きていくことが嫌になっちゃいますよね。
話が少し脱線しましたが、何が言いたかったかというと、お風呂も歯磨きも、料理も掃除も、勉強も仕事も、誰かに嫌われないため、誰かに承認されるためではなくて、「自分の幸せ」「自分の喜び」のためだと心の底から思うことができれば、もっと生きるのが楽しくなるのではないでしょうか、ということでした。
少なくとも自分はそう考えるようにしましたし、そうしてから、体調はかなり良くなったことは、紛れも無い事実です。
最後までご覧いただき有難うございました。
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