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クルーロングインタビュー2:K君”児童養護施設で育った僕が今つらい思いをしている人達へ伝えたいメッセージ”【前編】

 財団SNS担当まっきーです。みらいこども財団はボランティア団体なので色々な方がクルーになっています。K君は本当に好青年で、年齢が上の方にはとても礼儀正しいし、同世代の子達とは遅くまでテンション高めにオンライン飲み会をしたり(笑) 一見「普通」に見えても「普通じゃない」日常を送っている人が実はまわりにいっぱいいるんでは無いかと思います。
そんなK君にまず「子どもの時の生い立ちから現在までを教えて下さい」とインタビューしてきました。

―児童養護施設へ入る前の生活と入った後の生活

 まず初めに、私は児童相談所、児童養護施設にそれぞれ3回入所、退所(園)しています。
 施設で過ごした期間は、2歳か3歳から小学2年生の終わりまでと、4年生の秋から4年生の終わりまでと、5年生の夏から高校1年生の4月末までの約9年半くらいです。
 私の記憶では、物心ついた頃には児童養護施設で生活をしていました。
 私が2才くらいの時から家で、育児放棄(ネグレクト)や暴力があり、物が飛んでくるのは日常茶飯事でした。
 私には兄姉が1人ずついるのですが、私が1度児童養護施設を退園した後の小学校3年生から4年生の秋までの期間、3人で親の金を盗んでご飯を食べたり、家の鍵が開いていないくて、入れないので深夜遅くまでコンビニやブックオフで本を立ち読みしたり、真夜中ぶらぶら歩いたり、商店街でゲームをしたりしていました(当時無料でゲームをできる所があったんです笑)
 当時は、してはいけないこともしていました。万引きです。
「万引きはだめ!犯罪!」そんな事は小さいながらも分かっていました。ですが分かっていても当時は食べ物や飲み物を口にするのが困難な日もあったり、1日1食、それがお菓子一袋だけなんてこともありましたし、公園やコンビニのトイレに付いてる水を飲んでなんとか生活をしていました。
 今は当時してしまった事に対する反省はしています。
ですが、「生きていく為」に当時の無知な私は必死だったんだと思います。 この文章を読んで、少なからず共感できる方もいると思います。
 施設で育った後で「当たり前な事」を知ったはずだったのですが、やっぱり子どもって真っ白で。すぐに環境に染まってしまったり、親を見て育つんですよね。
 小学校3年生~4年生の秋まで親、兄姉と過ごす中で「お風呂に入る」「歯磨きをする」「学校に行く」施設で与えてもらった「当たり前な事」はたった一年半で見事に「当たり前ではない非日常」になってしまったんです。
その後、ニ度目の入所をすることになります。
約半年施設で過ごし、小学校5年生からまた親の元で過ごす事になったんですが、約2ヶ月くらいでまた児童相談所に戻ることになります。

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―K園との出会いでわかった大切な事

 そしてその後入所することになる児童養護施設との出会いで僕の人生は本当に大きく変わる事になりました。
※1、2回目に入った施設は同じ所で「S学園」さん、3回目に入った施設は「K園」さんです。
 三度目に入所した施設はK園という施設で、そこで私は沢山の人と出会い、人として大事にしなければいけない「モノ(心や考え方)」を育みました。
 K園で過ごした約5年の年月は本当に色々あって、小学5年生~中学3年生の期間って、反抗期に思春期の真っ只中で、本当に先生方には数えきれないくらいご迷惑をお掛けした少年時代だったと思います。
 ルールを破ったり、自分の身体を傷付けてしまったり、先生に酷い事を言って泣かせてしまったり、法に反する事をしたこともあります。
「一般的な家庭」の定義が何かのかは分かりませんが、もし一般的な家庭というものが存在するならば、子の犯した罪は親の責任となり、共に償うのが当たり前な気もしますよね。
 でも児童養護施設って、私達が先生達の子どもじゃなければ、先生達は私達の親ではないんです。だって先生達は「仕事」として働いてお給料をもらっていますから。
 そういう面で「親子」というより「少し距離の離れた関係」のような気もします。
 私のように児童養護施設に住んでいる子どもは、本来ならば身近に居て誰よりも頼れるべき存在である「親」がそこにいてません。なら誰に頼るのか?それが「先生」なんです。
 また、親は自分の子どもを育てれば良いのに対して先生達は1人で何人かの担当を持っていて、それこそ一般的な家庭と同じように、24時間一緒に生活するのは無理なんですよね。
 先程私が言った「少し離れた関係」というのは、先ほど口述したように、何かあった時に常に心配してくれる親がいてるのに対して、どれだけ信頼しようとも毎日会うわけではなく、どれだけ埋めようとしても埋めれない「距離感」がそこ(子どもと先生の間)には存在するんです。その距離感のことを「少し離れた関係」と変換しました。
 多分児童養護施設出身の方であれば何となく私が言っている意味、ニュアンスが分かると思いますが、それ以外の方からすれば「???」って感じだと思います。
 先程少し触れたのですが、私は小学6年生の卒業間近、同じ学年の友達6人と法に触れる行いをしてしまいました。
 私の記憶では3回、法に触れる行いをしてしまったんです。
 小学校卒業間近で気分が上がっていたのか、頭では「ダメだ」「悪い事」と分かっていても、友達と一緒に何かをするというのは、良くも悪くも「責任感」を投げやりにしてしまってたんだと今では思います。
 詳しい内容は言えないですが、私達6人は先生達に沢山叱られ、反省文を書き、全員の前で謝罪したのを今でも鮮明に覚えています。
 そして何より辛かったことは、小学校5、6年生の担任をしてくれていた●●先生の信頼を0にしてしまったことです。
 約1年8ヶ月、●●先生に授業をしてもらい、本当に沢山笑って、お互い信頼関係が築けていたのに、たったひとつの出来事で今までの信頼関係が0になってしまったんです。
 いつもは本当に怖い●●先生が、その件で怒る時だけは唯一「悲しみ」を堪えながら僕たちの事を叱ったのを今でも覚えています。
 そして他の先生方や、施設長にも本当に多大なるご迷惑をお掛けしました。
 本来ならば別の児童養護施設に移るか、少年院に入ってもおかしくないような出来事だったのに、先生達はそれを必死に止めてくれて、私達の事を全力で守ってくれていました。
 もちろん当時の私はそんな事には気付かなかったのですが、今こうして私が大きくなってふと思い出すと、あの時先生達は警察や他の関係者にも謝ったりと、本当に必死で守ってくれていたんだな、と思います。それこそ「仕事外」で動いてくれていたんだというのを今なら分かります。
 私は、法を犯した事よりも、「私なんか」の為に涙を流してくれたり、本気で向き合って、目頭を熱くしながら叱ってくれる、そんな先生達の心を裏切った自分に腹が立ちました。
もちろん法を犯すことは絶対にダメなことです。
 ここで、私からこの文章を読んでくれている方達、特に児童養護施設に住んでいる子ども達と、親元で過ごされている子ども達に伝えたいです。
「法を犯したことによる過ち」よりも、「あなたの事を必死に守ろうと、そしてあなた以上に涙を流し、本気で叱ってくれるそんな人」を大切にしてください。
 何か過ちを犯そうとした時、頭の片隅にいる「大事な人」を思い浮かべて、その人が悲しむような事はしないでください。
 それは勿論親だけではありません。友達や学校の先生、児童養護施設に住んでいる子ども達も、そこで関わってくれている先生方、その人達がくれる「愛情」をしっかり受け止めてほしいです。今は気付かずとも、いつか気付く日が必ずきますから。
 そして、愛情は必ずしも親だけが与えてくれるものではありません。家族、友達、先生、もっともっとあります。
私はこの件から学びました。
 私は一人ではなく、周りの沢山の人から与えられている愛情によって毎日生かされているんだと。
大人も子どもも関係なく、皆さん自分を大事にしてくださいね。

―卒業後の挫折と目標と夢

 その後、高校は無事合格し、3年で卒業できました。
卒業と同時に、兄が教習代を半分払ってくれたおかげで無事普通自動車の免許を取得できました!が、今現在6年ペーパードライバーです(笑)
高校卒業と同時に工場の仕事に就いたのですが、長くは続かず5カ月で辞めてしまいました。
 私は高校1年生の4月末から兄と二人暮らしをしていたのですが、その時働かせて頂いていた工場があまりにも自分に合っていなかったので、貯金が0円なのにも関わらず直ぐに辞めました。
辞めた理由は3つあって「1、自分に合っていない」「2、自分が本当にしたい仕事はこれじゃない」「3、吃音をいじられて精神的に病んだ」からです。
1は、そのままの通りです(笑) ただただ毎日しんどくて、ストレスが溜まっていく日々でした。
2は、私の姉の話とK園でお世話になった先生の話からくるものなのですが、私と姉は昔からずっと一緒に居て、恐らく家族で一番長い時間を過ごしたのがこの姉です。普段は「ねえちゃん」と呼んでるのですが、ここで「ねえちゃん」だと格好つかないので「姉」で呼ばせていただきます(笑)
 姉は小さい頃から保育士になることを夢に掲げていて、私もそれを昔から聞いていました。姉は私よりも大変な人生を送っていて、本当に日々変化の毎日だったと思います。
 今は保育士になる為の勉強ができる環境にないのですが、いずれ姉は保育士になると思います。
 そして、仕事を辞めようと思い丸1日考えこんでいたのですが、次の日には吹っ切れたかのように辞表を出しました。
気が付けば、私の「夢」も保育士に変わっていたのです。
 その当時は「夢」というよりも、「やりたいこと」だったのですが、次第に夢に変わっていくことになります。
「きっかけ」をくれたのが姉で、「夢」を与えてくれたのが「K園でお世話になった先生達」の存在でした。
 先程書いた通り、私は本当にK園の先生達に迷惑をかけ、そして沢山の愛情をいただきました。
 当時先生がよく言っていた言葉を思い出します。
「トイレのスリッパ並べなさい」「歯磨きしいや」「ご飯の時間やで」「布団干しなさい」「お金使いすぎたらあかんで」もっともっと、本当に沢山言われてきました。
 正直当時は「う~~~」って感じでストレスだらけだったんですけど、K園を退園して初めて、先生達が口を酸っぱくしながら言っていた意味、愛情を知ったんですよね。
「目に見えない愛情」ハグや、お金を使って何か買ってもらうよりも、見えないから気付かない愛情を沢山先生からいただいてたんです。
 そして「夢」に向かう原動力。「先生達みたいな先生になりたい」と。
「いつか児童養護施設の先生になって、あの時あんなに大変やった子が今では児童養護施設の先生してるよ」って胸を張って伝えたい。
そして、「親孝行」したい。
 今でも覚えています。K園の見学に行った時、ある先生が「私達の事を親だと思っていいからね」。
その言葉の意味がやっと分かったんです。
分かるまでに8、9年かかっちゃいましたが。
 私の故郷であり、私の親とも言える人達がいてるK園。私にとって、何よりも大事な場所です。
 この2つの要因が重なり、私は「辞めたい」から「辞める」と、決意を決め、次の日には辞めました。

―【後半へ続く
※K君のインタビューは後半後も【連載】予定です

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