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クルーロングインタビュー2:K君”児童養護施設で育った僕が今つらい思いをしている人達へ伝えたいメッセージ”【後編】

―吃音のこと、悩み

 時には迷うことも大事ですが、直ぐ決断するのも難しくて勇気の必要な事なんです。
 3、の「吃音」は、恐らくほとんどの人が「なにそれ?」って感じだと思います。
分かりやすくいうと、どもりです。この言葉はあまり好きではないですが。
 私は医師の診断を受けた訳ではないので(お金がなく受けれなかったので)、公に「吃音」と書く訳にはいかないのですが、恐らく吃音の症状だと思いますし、それによって精神的に本当に病んでいます。それは、今現在も。なので「吃音」と書かせていただきますね。
 ではどういった症状なのか。皆さんの周りにもこういう話し方をする方いませんか?
1、「あ、あ、あ、ありがとう」「ああああありがとう」
2、「そーーーうですよね」
3、「・・・・ありがとう」
伝わりましたか?
 1、の場合、一番最初の音、今回でいうと「あ」を何度か言った後に「りがとう」と続くような症状で、最初の言葉が「つまる」為に「どもってる」なんてことを言われたりもします。これを『連発』といいます。
 2、の場合、「そうですよね」と普通言うのに対し、「そーーーうですよね」と伸ばした言い方になります。決してわざとではないです。こういった症状の事を『伸発』といいます。
 3、の場合「・・・・ありがとう」という様に、最初の言葉が出にくい症状です。これを『難発』といいます。最初の言葉が出ると後はスムーズに話せるのですが、人との挨拶や名前を呼ぶのが難しく3つの症状の中ではあまり周りから認識されにくい難発が一番つらいと言われています。
私は特に、1の連発、3の難発が酷く、正直会話をするのが怖かったり、仕事に行く時にいつも胃がキリキリしています。
 私が吃音を知ったのは、ドラマの影響です。その主人公が吃音者の役を演じていて、私は良いか悪いか周りに一人そういった症状の人がいてるのを知っていました。
 その時にふと思い出すと、中学2年生の頃、「学習発表会」というのが学校行事であり、私は当時中学2年生でありながら劇の主役をさせていただきました。
 当時、台詞が130個くらいあって、覚えるのが大変だったのを覚えています。
 学習発表会の練習をしている時に、ふと「これ何か言いにくいなぁ」というのがいくつかあり、台本を作った先生には言いにくい事を伝えず、「こういう文章の方がいいと思います」と伝えて、読みやすいようにしていました。
 そしてよくよく考えると、この頃から国語の時間中に「読む」のがしんどくなってきたのを覚えています。
 最初の言葉が出ないので、「えーーーっと」っと言ってからいつも読み始めていました。そしてそれは高校でも一緒です。
 以前働いていた工場では、毎朝「おはようございます!今日は○○します!」と言う朝礼があったのですが、いつも「お、お、お、お、おおはようございます」と言っていました。勿論当時は吃音という言葉は知りません。
 そして会社の先輩に「なんやねんその言い方」「普通に言えよ」等、本当に辛い言葉が沢山飛んできました。
 私は耐えれなくて、仕事を辞める決意をしました。
 仕事を辞めたのには3つの理由がありますが、この「吃音」が恐らく一番大きいのではないのかなと思います。

―アルバイト生活と兄への感謝

 仕事を辞めてからは、高校時代にアルバイトでお世話になっていた店長に連絡をして、約3年半働く事になります。
 運良く夜勤者が辞めた直後らしく、すぐ採用してくれました。一週間程ニートをし、そこから週5、6で働くことになりました。最初の一月はお金がなかったので兄に借り、少しずつ返済していきました。
 そして、夜勤ということもあり、1年でお金はかなり貯まりました。
 高校1年生の時から兄とずっと過ごしていたのですが、狭い家だったのでストレスが溜まり、二十歳になったすぐに家を借り、9月末から1人暮らしを始めました。
 1人暮らしは快適で、家具なんかもアルバイトで知り合った友達や中学の頃の友達と一緒に買いに行ったり搬入したりしました。
 ですが、本当に兄には申し訳なかったと思っています。
 兄が「引き取る」と言わなければ私は高校3年間も施設から通っていたからです。
 兄自身まだ社会人になりたてなのに、私を引き取り、本当に大変だったと思います。
 家賃を多く払ってくれたり、教習代を半分出してくれたり、たまに電話で「マクドおるけど何かいるか?」と聞いてくれて、普段良い物を食べていない私の事を気遣ってくれていました。マクドも栄養はないんですけどね(笑)
 それなのに、勝手に家を出て、本当に申し訳ないです。
 今更「あの時ごめん」なんて事は恥ずかしくて言えないですが、もし兄がこの文章を見てくれているなら、この場を借りて謝りたいです。
 勝手に家出ていくって決めてごめん。でもそれ以上にいいよって言ってくれてありがとう。そして施設から引き取ってくれてありがとう。5年間住まわせてくれてありがとう。
 私より、本当に、本当に苦労人の兄です。これからも健康だけには気をつけてほしいです。
 アルバイトの友達とは本当に仲が良くて、いつも遊んでました。
 私がアルバイトを辞めてから会うことは無くなりましたが、また一緒に酒でも呑みながらアルバイトの時の話をしたいですね。
そして、20歳の頃から学童で働くようになりました。
 いつか児童養護施設で働く為に子どもの事を少しでも知っていたい、と思い働きだしたんですが、気付けば5年目。頻繁には入れてないのですが、子どもがかわいく辞めれそうにありません。もう少しだけ学童の先生をしようと思います。
 この時、人生の転機とも言えるような出会いがありました。

―みらいこども財団との出会い

 それが、この「みらいこども財団」との出会いです。
 もちろん私も財団メンバーの一員で、早いことに財団と出会って3年半になろうとしています。
 財団と出会うきっかけをくれたのは、K園の先生でした。「仕事を辞め、児童養護施設の先生になりたいからアルバイトして学費を貯めている」と話したところ、「それやったら今のうちに何かボランティアしとき。就職にも役立つし、こどものことも勉強できると思うよ。」その一言で、私はすぐにインターネットで調べました。
 その時に出てきたのがこのみらいこども財団で、私はなぜか物凄く惹き付けられました。
「児童養護施設」に特化したボランティア。私程向いてる人はいない!そう思い、すぐに財団の代表(あだ名がボスなので次からボスと書きます)に連絡をしました。
 先生の話を聞いて一月後にはみらいこども財団の一員になり、初訪問とその月にさせていただきました。
「これから初めての事だらけやけど頑張ろう!!!」とやる気を見せるも、財団内の方達と全く仲良くなれず、3ヶ月が経過しました。私はその時2つの施設さんに訪問させていただいてたのですが、子どもに会いたいけど、財団内は楽しくない。という葛藤と戦っていました。辞めようかなとも考えました。
 ですが、GMP(グリーンマインドプロジェクト)という、施設に住んでいる子ども達をUSJに誘うというイベントで財団内での自分の立ち位置が確率されることになるんです。
 GMPは成功し、子どもも財団クルーも笑顔で楽しむことができました。
その後、財団メンバーで打ち上げに行ったのですが、ここで3人の友達と知り合い、爆発的に知り合いが増えていくことになりました。
 そこから、3つの施設さんに訪問させてもらっているのですが、もう本当に毎回毎回子ども達に会うのが楽しみすぎて、当時日曜日も夜勤で働いていましたが、子ども達に会いたいので夜勤を減らしてもらったりもしました。毎月の出費は大きいのですが、それよりも会いたいが強かったんですよね。
「子ども達に会いたい」という強い思いが勝ちすぎて、ボスと揉めたこともあります。今では良い思い出です。
 訪問終わり、感想シートというのを書くのですが、他の財団クルーは1枚だけなのですが、私は毎度毎度3、4枚書いていました。事細かに、鮮明に。「人に見てほしい」というよりは、自分が見て「あ~あの時こんなことしたなぁ。こんな約束したなぁ。」と思い出し、子どもとの約束を破らないようにする為に書いていました。良くか悪くか、財団内で一時「すごい書くなー!」と色んな方に言われました(笑)
 訪問で一緒だったクルーさん、お酒の場で一緒だったクルーさん。
本当に仲の良い人達が沢山できました。
 みらいこども財団が「私の居場所」となりました。

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 そして、血は繋がっていなくとも、父、母、姉、兄、弟、妹、ができました。それくらい大好きな人達が増えたということです。
 ふと「いつか結婚するとして、その時に何人くらい人呼ぶんやろう。」と考えた時期がありました。
 すると60人近く呼びたい人がいて、内半分が財団のメンバーでした。さすがにびっくりしました(笑)
 これを見てくれている方、「施設に住む子ども達の為に何かしてあげたい」と行動に移し、日々真剣に施設に住む子ども達の事を考えている人がこのみらいこども財団には沢山います。
 そして、児童養護施設に住んでいる人達。もし何か困った事があればいつでもみらいこども財団を頼ってください。私達は決してあなた達を独りにしません。きっと素晴らしい仲間ができると思います。
 3年半アルバイトをして、保育士資格と幼稚園教諭免許を取る為に専門学校に入学しました。この時22歳です。普通であれば、ちょうど同じ学年の大学生が卒業する頃です。
 入学してからは保育園で保育補助として保育士さんのお手伝いをさせていただき、本当に沢山の事を勉強しました。
 こども達みんな本当にかわいくて。そして先生達がみんな良い人ばかりで、本当に色んな面で助けられました。特にプライベートでご飯に誘ってくれた先生や、いつも息子みたいに接してくれた先生、先輩なのに同期かのように接してくれた優しい先生方のおかげで2年間頑張れました。
学童のアルバイトは土曜日だけ続けていました。逆に、ボランティアにはなかなか行けませんでした。
 3つの施設さんに訪問させていただいてたのですが、金銭面と時間の問題で、2つの施設さんへの訪問を一旦辞めました。子ども達には、「必ずまた来るから!」と約束をしています。その内の1つの施設さんに数ヵ月前、約1年ぶりに訪問した時、子どもに「やっときた!」と言われ、待っていてくれていた事を本当に嬉しく思いました。「来るって約束したから来たよ!」と伝えると、ニコッと笑っていました。「しばらく来れないかもしれないけど、また必ず来るからね。」と再び約束を交わしました。
この2年間の学校生活は本当にとても大変でした。
 朝7時半に起きて、9時から17時で働き。17時50分から21時まで授業。そして大の苦手のピアノの練習を毎日。家に着くと22時か22時半。風呂に入り洗濯物を干して、ご飯を食べてってするともう0時。そこからやっと自分の時間を作り、1、2時間テレビを見たら就寝。そんな2年間でした。
 今は専門学校の3年生になったのですが、コロナの影響で学校には行けていなくて学童に行っているだけです。
 4月末からオンライン授業が始まり、先生も生徒も探り探りの状態で授業を行っています。
 今年度で卒業できるのか分かりませんが、日々自分に出来る事を頑張っていこうと思います。
毎日ピアノと自炊と節約を頑張っています!
 皆さんもコロナには十分気を付けて、感染予防をしっかりしてくださいね。自分の命を大切に、皆でコロナと闘っていきましょう。

―インタビューを終えて
色々な思いを今回K君は伝えてくれました。
当初は1回で終わる予定でしたが、私はK君に聞きたい事が山程あり、それをK君は沢山の文章で色々と返してくれています(今も)
ボランティアなのですぐには作れないかもしれませんが、
定期的に【連載】として発信させて頂きます。 まっきー



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