Movie 6 続・手紙『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
3年前の2019年7月、アニメの企画・制作会社である「京都アニメーション」が放火の悲劇に見舞われました。
その時公開直前だった『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の劇場版。
当初は、2020年1月に世界同時公開予定でした。公開延期となり、2020年4月の予定が、新型感染症の流行拡大を受け、9月まで再延期されました。
原画十数点を残し全て焼失した中、辛うじてデジタル映像だけは焼失を免れ、公開に漕ぎ着けたとのこと。
以前から気になっていて、いつかは観ようと思いながら、なんとなく機会を逸していたのですが…
ネトフリやAmazon、noteでも、なんでだか、どういうわけか、「あなたへのおすすめ」にガンガンあがってくるのです。
そんなに?
そんなにいうほど、私におすすめなんだろうか?
と思って、ある時ネトフリを開いたら、マッチ度98%でした。
そんな理由でついに観た、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。
まずは素直にテレビアニメ版を観て、それから劇場版を観ました。
これは架空の世界の架空の国の物語。
そして架空の歴史における「戦後」の、ひとりの女性の伝記です。
少女ヴァイオレットは推定年齢14歳。孤児で、最初は名前もなく、ただ戦争で人を殺すためだけの殺りく兵器として大人に利用される子供でした。
陸軍少佐ギルベルト・ブーゲンビリアの兄、ディートフリート・ブーゲンビリア海軍大佐は、「闘う道具」としての彼女を使いこなせず、それどころか彼女に仲間を殺されてしまい、ある時、弟ギルベルトに彼女の身柄を預けます。
感情を学ぶことすら許されず、機械のように命令に従うだけの少女。ギルベルトは彼女に名前を与えて庇護するのですが、上層部の命令で、「兵器」として戦場に連れて行きます。
やがて彼女を愛するようになったギルベルト。
自分を救ってくれたギルベルトにひたむきに尽くすヴァイオレット。
しかし戦争は彼らを引き裂きます。
命は助かったものの両腕を失い、義手をつけたヴァイオレットを入院先に迎えに来たのは、ギルベルトの同期だったクラウディア・ホッジンズ元中尉。
彼は戦後起業した自分の郵便会社に彼女を迎え入れます。
ヴァイオレットは、最初は手紙の配送をまかされるのですが、ギルベルトが最後に彼女に言った「愛している」という言葉の意味を知りたいという理由から、「自動手記人形(ドール)」として働くことを決意します。
作中の「自動手記人形」とは、オーランド博士という科学者が、視力を失った小説家でもある妻・モリーのために作った、人間の肉声を文字として書き起こせる機械仕掛けの人形のこと。次第に代筆業を行う人間のことも「自動手記人形」と言われるようになったようです。
作中世界では文明の発達度や科学技術水準などがリアル世界と異なり、ヴァイオレットの義手は素晴らしく精巧ですが、人々の生活は20世紀初頭のヨーロッパ的な様式だったりします。文字の書けない人が多く、ドールは終戦後の女性たちの花形の職業でした。
タイピング速度が速く正確でも、ヴァイオレットは感情のこもった文章を全く書けません。専門学校に行っても、文面がどうしても報告書のように無機質な文章になってしまい、及第点をもらえません。
人との出会いによって、次第に感情を学び、素晴らしい手紙を書くことができるようになっていくヴァイオレット。方々から出張代筆の声がかかるようになり、売れっ子「ドール」へと成長していくのです。
特に印象的なのはテレビアニメ版の第七話。
娘を喪った失意の舞台脚本家のところに出張代筆に行ったヴァイオレットが、彼とともに物語を創る作業に携わるうちに、感情がいっきに花開き、ヘレンケラーが水に触れて「ウォーター」と叫ぶシーンに似た、感動的なシーンがありました。
途中まで脚本を読んだヴァイオレットに、「どうだろう、面白いだろうか」、と脚本家が問いかけます。
そう、答えるヴァイオレット。
それに対し、
脚本家はそう答えます。
それまでヴァイオレットは、複雑な感情を理解することや、他人に共感することができませんでした。
戦場でギルベルトが重傷を負い、絶体絶命に陥ったとき、彼がヴァイオレットに「きみは、生きて、自由になりなさい」「心から愛してる」と言う場面があったのですが、ヴァイオレットはその言葉の意味が、わかりませんでした。
瀕死のギルベルトに向かって、彼女はそう言いながら(おそらくは初めて)泣くのですが、その涙は感情と乖離しています。
身体は感情を反映しているのに、彼女にはそれを「感じる」感受性と、言葉がなかったのです。
心の動きや体の反応を、感情として捉えることができない。
ましてや、言葉とも結びつかない。
そういう場面をいくつか繰り返して、脚本家の書いた「物語」を追体験したことで、感情に言葉がつき、概念としてはっきりと着地した感じがまざまざと表現されています。
ヴァイオレットはそう言って、初めて「心からの」涙を流すのです。
その体験の後、彼女は自分の過去が言葉と結びつくことによって、その苛烈な現実を「心で」理解してしまいました。
人を殺めて生きてきたことに激しく傷つき、立ち直ることができなくなります。
ギルベルトの兄から投げかけられた言葉も彼女に追い打ちをかけます。
絶望の淵にいたヴァイオレットは、同僚の女性たちから生まれて初めての自分あての手紙をもらいます。
そして行く先々で、自分が手紙を代筆してきた依頼主のその後の人生が輝いているのを目にします。
自分がしたことが、誰かを少しでも幸せにしたのかもしれない、という希望を持ちます。
ヴァイオレットは社長のホッジンズに問いかけます。
ホッジンズは泣きながらそれに答えるのです。
その後、最後がどうなるかは、ここでは書きません。
劇場版はその続きが描かれますが、劇場版についても書きません。
正直、劇場版のインパクトは計り知れません。
いままで観なかったなんて、私としたことが!と激しく後悔するほどの名作。
しかも、神作画。
こんな素晴らしい作品を創った方々が惨劇に遭われたことを思うと、心から悔しく思います。
劇場版は、テレビアニメ版を観なくてもわかりますが、できれば、テレビアニメ版を観てからをお勧めします。
さて、この物語は、感情を言語化することで、感情を追体験し、心を再構築する物語なのですが、それはまさに「手紙」のもつ能力そのものです。
私はようやく、なぜそんなにも「わたしにおすすめ」だったのかを理解しました。
書くのが好き、読むのが好き、三度の飯より好き好き好き。
noteにそう書きまくってやまない私に、これ以上のおすすめアニメはありません。
「手紙」が主軸のテーマである今作は、「書く」「伝える」ということを、根底から考えさせられる物語でもあります。
「書く」ということは、身体と心と感情を結びつける作業です。
身体や脳を動かして書くことによって、感情は言葉になり、心に結びつくのです。
究極の癒し。
更生施設で自分史を書かせたり、手紙をかかせたりするのはまさにそれだと思います。文字をつかって言葉にすることで、自分自身を見つめ直す。
そのことで癒されることが確実にあると思うのです。
以前、私は「手紙が苦手だ」という記事を書きました。
この記事で私は、手紙に対するハードルを高く設定しすぎ、思い入れが強すぎて、気軽に書くことができない、一方通行の思いをどのように伝えたらいいのかわからない、と書きました。
そして、
とも、書きました。
その答えが、この物語だったような気がするのです。
手紙とは、言葉によって自分の心に相手の感情を再現するもの。
逆もまたしかりで、自分の書いた言葉は、相手の心に私の感情を届けるのです。
それはまるで花束のようなもの。
人は、自分の感情を伝えるために花束を贈り物にします。
物言わぬ花は目に映るだけで、心に感情を形作るのです。
手紙は、言葉を使うから、美辞麗句をいくらだって並べることができますが、伝わるのは実はシンプルな感情なのです。
言葉によっては、美辞麗句も慇懃無礼になる。
同じ文言でも、相手によっては、ぞっとしたりさえ、します。
手紙の形式や言葉の良しあし、さらに言えば字などは、さほど重要ではなく、「いつ」「だれに」ということのほうが、ずっと大切だったのです。
なんだ。
そうだったんだ。
私は、難しく考えすぎていたのだと思います。
どんなに通信手段が発達しようとも、きっと「今こそ、手紙を書く時だ」という場面が、人生には何度か訪れるように思います。
今度こそ、その時を逃さずに、心を込めて手紙を書こうと思うのです。
書ける、と思います。
最後に、このアニメの特徴的なところとして「光」があります。
ヴァイオレットが少しずつ感情を得るところで、画面に光が差すのです。
影になっていたところに光が差し込んだり、雲が流れて日の光に包まれたり、とても印象的かつ効果的に光が使われています。
モヤモヤした気持ちがすっきりすると「霧が晴れたように」と表現することがありますが、まさにそれ。
アニメーションならではの演出が美しく、そしてその光には、どこか宗教的救いとも言える不思議な爽やかさがあり、観ているこちらのほうが癒されてしまいます。
ヴァイオレットのように、人生の前半生を誰かに(何かに)奪われてしまう人、というのは現代であっても、います。
子供と言うのは、この世の理不尽に対しなすすべがありません。
それでも人は「愛」を学び知ることで変わることができます。
劇場版の最後に、こんな言葉がありました。
この世に生きとし生ける人の人生に幸あれと願いたくなる、そんな物語です。
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