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映画『タロウのバカ』を観て、ビールを片手に話したこと。

こんばんは。服飾大学で出会った「みっぽ」と「キキ」がサブカル的な態度でコンテンツについて対談形式で語る「サブカル女子って呼ばないで」です。

今回は賛否両論と話題の映画『タロウのバカ』を観て、単純に「すごく良い映画だったね!」では終わらせることができなかった私たちが、とりあえず一旦ビールを手にし、ポツリポツリと会話した「祈りと救い」「生と死」についての対談です。
*このnoteはネタバレを含んでいます

【あらすじ】
主人公の少年タロウには名前がない。戸籍すらなく、一度も学校に通ったことがない。そんな“何者でもない”タロウには、エージ、スギオという高校生の仲間がいる。エージ、スギオはそれぞれやるせない悩みを抱えているが、なぜかタロウとつるんでいるときは心が解き放たれる。
大きな川が流れ、頭上を高速道路が走り、空虚なほどだだっ広い町を、3人はあてどなく走り回り、その奔放な日々に自由を感じている。しかし、偶然にも一丁の拳銃を手に入れたことをきっかけに、彼らはそれまで目を背けていた過酷な現実に向き合うこととなる……。
-FILMAGAより引用

■『タロウのバカ』はリアルか

みっぽ 賛否両論の『タロウのバカ』のレビューを見ていると、否定側の意見には「共感できない」「リアルじゃない」みたいな内容も多いみたい。

キキ 確かにショッキングな映像も多いこの映画で表現されている内容を「こんなのウソだ」と切り捨てるのは簡単なことなのかもしれないけれど、「ウソだ」とはとても思えなかったなあ。

みっぽ 「こんな子達周りにはいない(からリアルじゃない)」みたいなコメントも見た。確かに映画の登場人物である「タロウ」や「エイジ」や「スギオ」そのものはいないけれど、彼らの鬱屈した内面を持ち合わせている人はいくらでもいるんじゃないかな。彼らはそれをわかりやすく具現化した存在なだけで。

キキ だから「周りにいない」んだとしたらそれは「見ないようにしている」とか「見えていない」だけなんじゃないかなって思う。

■祈りそのものが救い

キキ 「共感できない」っていうのも、別に「共感できること」がいい映画の定義じゃないというか。「理解できないもの」を「つまらない」とするのは簡単だけど、そこで終わっちゃうじゃん。監督自身もインタビューで話していたけれど。

みっぽ なんなら「タロウのバカ」は、舞台となっている日本という国に今生きている私たちだから理解できる部分も多かった気がするけどね。この映画のキーワードとして度々出てくる「祈り」というものに対する見方は、日常生活で宗教を深く意識せずに生活している人の多い日本ならではの感覚が盛り込まれていた気がする。

キキ ちょうど最近世界の宗教をテーマにした本を読んでいて、「生まれたときから当たり前のように宗教が身近にあって、それを心の底から信じる、祈ることが出来ていたら、死ぬことに対する恐怖って今ほどはないのかな」って考えていたの。

みっぽ あー。例えば物心ついたときにはキリシタンでイエスの教えを信じていて、祈りの言葉が生活に馴染んでいて、死後は天国という行く場所があるのだと当たり前に考えていたら、今の私たちが持っているような「死に対する漠然とした恐怖」は思いもしないし、理解も出来ないのかも。

キキ その上でこの映画を見て個人的に一番感じたのは、「救われたい」と祈るのではなく、「救われたいと祈ることが出来たらどんなに良いだろう」と考えることで。宗教に限らず。

みっぽ 宗教にせよなんにせよ、心の底から信じられる、祈ることが出来るものがあったとしたら、それ自体が既に救いなのかもしれないね。

キキ そう。だからこそ「救われたいと祈ることが出来たら・・・」というのは、宗教を深く意識せずに生活しているひとが多い日本ならではの「祈り」なのかもしれないなって。

みっぽ でも映画ではタロウもエイジもスギオも、救われることがないと気が付いてしまっているから祈れない。逆にタロウの母はそれに気が付いていなくて、救われたいと祈り続けているわけじゃん。そんな姿を見てタロウは嫉妬や怒りを覚えたのかもね。

■他者の中の自分

キキ その、「祈り」「救い」という文脈で考えていくと、手に入れた拳銃で自ら命を絶ったのがスギオっていうのはすごく理解できる気がする。

みっぽ そうだね。。タロウもエイジも、何か自分の中の歯車が一つ違う方向に掛かっていたら別の方向に人生が進んでいたかもしれないと思うのよ。抱えている問題が、自分自身の中にあるから。でもスギオだけは、抱えているものが洋子っていう他者の中にあるの。

キキ スギオだけは、自分自身の祈りでは救われないんだよね。

みっぽ 死の直前に、好きな子(洋子)とか将来について語っていたのも印象的じゃなかった?でもそれも、やっぱり話の軸は「洋子」「父」っていう、他者にあるんだよね。

キキ スギオは「何者にもなれない自分」に気が付いている印象もあったな。だからこそ希望が見出せないというか。主語が他者になっているというか。 

みっぽ うんうん。「何者にもなれない自分」がいて、更に主語が他者になることによって「他者にとっての何者か」にすら自分はなれないと思ったように見えた。

キキ なるほどね。何者にもなれず、祈りという希望も持てなくて。結果的に「無」にしか希望を感じなかったことがスギオに死を選ばせたのかな。

■命の距離

キキ これ、京アニの事件について、相模原の障がい者施設の事件と比較したツイートに対する引用リツイートなんだけれど、「命の距離」っていう考え方がなんだか腑に落ちて印象に残っていたんだよね。

みっぽ これ本当にそうだよね。『タロウのバカ』自体も、鑑賞者はエイジの視点で観ているからスギオの死にショックを受けるけど、タロウによって拳銃で撃たれた吉岡の死にはさほど衝撃受けなかったと思うんだよね。

キキ あーーーーー。そうだね。この映画自体がそうだね。今言われて改めてすごく実感した。映画の中の登場人物同士の距離間についてばかり目が行っていたけれど、私自身も距離で命の重さが変わって行くことが自分自身の感覚になった。

みっぽ 結局自分たちも今横から観たときにスギオと吉岡のどちらと距離が近いかって言ったらスギオなわけだからさ。

キキ そうだね。なんか「命の距離という考え方が腑に落ちた」と言っていながらも、心のどこかで「それでも自分は命は平等だと思いたい」っていう偽善というか、平和ボケ、思い込みというか、、盲信というか。。。なんかそういうものが今意識として降ってきた。

■生と死の区別

みっぽ 映画の序盤で「生と死の区別がつくか」という結構ショッキングな表現があったじゃない。障がい者施設のシーンで。タロウは最初、「死ぬってなに?」かが分かっていない、生と死の区別がついていないのに近い状態だったと思うの。

キキ そうだね。でも、身近な人や身近ではない人の死を目の当たりにして、なんなら自身の手で「死」というものを生み出したことによって「生と死の区別」がついてしまったタロウは、誰よりも命の距離感が分かってしまったんだと思う。

みっぽ タロウは吉岡を撃った後に同じ拳銃を母親にも向けることができてしまうわけじゃん。タロウにとっては、母親が祈ることは悲しくても、死ぬことは然程悲しいと思えなかったのかもしれない。

キキ 思わなかったんじゃなくて、思えなかった、なんだね。

みっぽ 人間が簡単に死ぬことも、簡単に死ねないことも、どちらも知って。その上で自分と他者、自分と自分の命の距離も分かってしまって。

キキ それが分かったタロウはこの後、祈ること、生きること、死ぬことの、どれに自身の救い、希望を持つんだろうね。


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